痴犬へ鉄槌 25  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 427()121424 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬>  日寛上人は、宗門に法主本尊義があったことを知りながら、あえ
> て『六巻抄』の三大秘法義の中で、それを完全排除されそして
> 本末転倒の法主信仰を防ぐためにも大石寺門流の三宝論を立てられ、
> 法主を僧宝の一分の立場に限定されたのである。

●ここも痴犬の自らの説ならば答えられるであろう。
少し刻んでみるか。
さあ、痴犬にはできるかな?
自分の頭で考えないでコピペばかりしていると、こういう詳細な反問には答えられないものである。
まさか痴犬君ほどの方が自分で検証・理解せずして邪難を吐く訳が無いであろうから、以下の細問には明確に答えてくれるであろう。
しかし、万一もし証明出来なければ、謝罪して脱会、である。よろしいな?

痴犬曰く「日寛上人は、宗門に法主本尊義があったことを知りながら、」云々

1、では、宗門のどこに「法主本尊義があった」のか。
具体的な証拠を挙げよ。

2、次に、日寛上人のどこの御文に「宗門に法主本尊義があった」ということをお述べになっているのか。
明示せよ。
―――――――――――
次、痴論への破折

『三宝抄』
■亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。(歴全四三九二頁)
との御指南と、
『文底秘沈抄』
■今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(六巻抄六六頁)
との御指南と併せて拝せば、御歴代上人全体を指して「三宝一体」であると仰せられていることが明らかである。
つまり、「三宝抄」の
「一器の水を一器に写す」との御表現は、ただ日蓮大聖人から日興上人にのみに限定されることでないことは、『文底秘沈抄』
の「今に至るまで四百余年の間”一器の水を一器に移すが如く”清浄の法水断絶せしむる事無し」との御文に明確である。

重ねていえば、日寛上人は「一器の水を一器に写すが故に師弟体一・三宝一体」(三宝抄)であると仰せであり、「今に至るまで四百余年の間「一器の水を一器に移」し、「清浄の法水断絶せしむる事無し」とされてきた方は御歴代上人を指しておられるのであるから(文底秘沈抄)、その御歴代上人も「三宝一体」であると仰せられていることは明々白々である。

さらに、「僧宝の一分」については詳細に破折済み。
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#23
何やら痴犬が↑について寝惚けてピント外れな反論を少々してあったようだが、

いち‐ぶん【一分】

@ ごくわずかな部分。
A 同じものとしてみること。同様。

とは、大辞泉での解説であり、当方の自説ではない。
つまり、上記両義有ることは客観性のある定説である。

その意義から、日寛上人仰せの「僧宝の一分」とは

@として拝せば、まさに謙遜の意となり、
Aとして拝せば、日寛上人も僧宝そのもののお立場、との意となる。

しかも、その両意どちらでも、「日寛上人御自身が僧宝の中に加わっていることを明確に主張された御指南」なのである。

更に、論及すれば、
@として拝せば、住持三宝の内の僧宝としての、「外用の辺」を仰せと拝せるし、
Aとして拝せば、三宝一体の「内証の辺」を仰せと拝すことが出来る。

しかしやはりいずれにせよ、「日寛上人御自身が僧宝の中に加わっていることを明確に主張された御指南」なのである。

痴犬の寝惚けた反問など全く通用しないことを知るべきである。
ニセ本尊をいくら拝んでも全く正智は沸いてくるわけがなく、ただただ根性が卑劣に歪み、人格が三毒強盛に破綻するだけである。