痴犬へ鉄槌 23  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 427()103326 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

まずはこれからいきますか。

> DATE:  4月27日(木)03時18分57秒
> TITLE: 予選落ちの予選落ちマサシくん
> NAME: エロ如68号  MAIL:
>
当方> ▼まず、痴犬が反論不能でいつも苦し紛れにいう、「正依を出してみろ。正依を!」
>> 「正依」か?この文が。
> ▼ 痴犬には正依と傍依の違いすら分からないか?
>
痴犬> ●君がわかってないのだよ。

●とうとう末期的症状だな。
確たる根拠も示せず思考停止状態のままだた悔し紛れでオウム返しだけしかでいないとは。
繰り返し指摘してやるが、ニセ本尊の猛毒と三宝誹謗の報いでこんな バカ になってしまうといういい見本だな。
>>
―――――――――――
痴犬> ●何を誤魔化してるんだい?いつ私がこの文を正依と言ったのだい?答えよ。
>> 正依でない日因の文を用いるのかどうかと尋ねとんよ しっかり読みなよ!坊や。
>
当方> ▼痴犬は自分で何を言っているのか分かってないのか、全く支離滅裂状態である。
>
痴犬> ●支離滅裂はあんたやあんた。

●ここも同様。
痴犬には当方と渡り合うのはもう無理なのではないか?
まっ、所詮ニセ本尊じゃダメだわな。その上三宝誹謗の限りを尽くしているその謗法の毒気深入の頭ではね。
>
―――――――――――
当方> ▼1、当方がかつて、日因上人の
> ■「日興上人已下の代々も亦た爾なり。内証に順ずるに則仏宝也。外用に依れば則僧宝也。故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば、則外用を存し以て僧宝と為るのみ」
> との御指南を引文した時、「正依を出せ」と喚いた。
>
> 2、つまり、痴犬は「傍依は用いるな」と他へ強要する=自らも用いない。
> ということは=正依(「正依(=正しい依文)」=法華経開結・「宗祖遺文」(御書)・日興上人・日有上人・日寛上人遺文」) しか用いない、との姿勢を自ら表明したに等しい。
>
> 3、当方の依拠とする御指南は別にここで言う「正依」に限定しない。
> 当方の立場としても別段、法華経開結・「宗祖遺文」(御書)・日興上人・日有上人・日寛上人遺文のみに拘るものではないし、拘る根拠も必要もない。
>
痴犬> ●(日蓮正宗宗規 第五条)
> 2 本宗は、次に掲げる経釈章疏を所依とする。
>
> 妙法蓮華経 八巻
>   無量義経 一巻
>   観普賢経 一巻
>   宗祖遺文
>   日興上人、日有上人、日寛上人遺文
>
> ●わかったよ あんたは日蓮正宗ではないんやな?日蓮正宗というのなら宗規を変えなさい。

●ここは、またもや正確に日本語の文章すら読めない、根性の歪みが露呈した箇所。
やはりニセ本尊の猛毒・三宝誹謗の獄悪果の報いで、このように脳の認識回路が歪み変形してしまうものか。

1、この宗規のどこに、
「妙法蓮華経 八巻
>   無量義経 一巻
>   観普賢経 一巻
>   宗祖遺文
>   日興上人、日有上人、日寛上人遺文」
以外の御歴代上人の御遺文を用いてはならない。などと書いてあるのか。

2、ちょうどいい邪難だから、ここで、詳細に完摧しておこう。

日顕上人御指南

■「日有上人、日寛上人の遺文が正依であるということは、そのまま、他のすべての歴代上人の遺文も正依であるということなのであります。
なぜなら、日有上人は宗開両祖のあと、三祖日目上人、そして4世、5世乃至、8世と伝えられた御相承を継いで第9世となられた方であります。
また、同様、第26世日寛上人も、25世まで継承された御相承を受けて登座された方であります。
けっして個々に「大聖人直結」とやらで存在された方ではないのであり、唯授一人・金口嫡々の血脈によって伝承されてきておる方なのです。
 したがって、日有上人、日寛上人が大聖人の教えを正しく敷衍(ふえん)して正依となるべき立派な著作をなされたのは、その間に宗祖以来の血脈を相伝された歴代の御先師方がおいでになったからであり、何も日有上人あるいは日寛上人が、御歴代上人を飛び越えて「大聖人直結」だ、などということはないのです。
 しかし、彼等(※謗法の罪業深き創価学会の者共)はその道理を無視して、日寛上人は「大聖人直結」だというのですが、不合理極まる言です。
それだから、『創価学会の偽造本尊義を破す』において述べたように、「大聖人直結」の日寛上人がどうして、おまえ達の謗法とする「五道冥官」の入った導師曼荼羅をお書きになっているんだ、ということにもなるわけです(『創価学会の偽造本尊義を破す』76頁を参照)。
(中略)
 「宗規」において、日興上人は別格として、御歴代上人中、日有上人と日寛上人のお二方の遺文のみを挙げているのは、一つには両上人の輝かしい御事跡、それから宗門において中興の祖として尊崇されるお立場から、その代表としておられるわけであります。
 したがって、本質的な意義の上から、日寛上人以後の御歴代においても、このことはまったく変わるものではありません。
 大聖人以来、唯授一人の血脈を師弟相対して相伝し、末法万年に正法を伝持・弘通する歴代上人の御指南ならびに著作はすべて、基本的に正依となることは当然です。
 その証拠に、また、「宗規」第15条の5には、法主である管長の宗務として、
 「教義に関し正否を裁定する。」
と、唯授一人の血脈の意義において明確に」規定しておるのであります。
 ただ、それを「宗制宗規」の「正依」の所においては、代表してこのお二方を挙げておるというだけのことであります。
(『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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「宗規」第15条の5
●(※法主は)教義に関し正否を裁定する。

「宗規」第2条
●日興上人が弘安5年9月及び10月に総別の付嘱状により血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。

第26世日寛上人『撰時抄愚記』
●若し文底の謂れを知れば熟脱も即ちこれ文底の秘法なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。

→当該御文(「此の経は・・・」)は、一往、権実相対についての御文であるが、再往、下種仏法の立場でいえば、文底下種仏法の深意は「相伝」(唯授一人の血脈)によらなければ「知り難」いということである。
「正依」たる日寛上人の「遺文」にも、このように法華経(御書)の依義判文は、唯授一人の血脈によらなければ分からないと誡められているのである。
その意味では、歴代上人の御指南は皆、正依と同様に扱われるべきである。

・「無量義は一より無量を生ず」(『一代五時継図』)とあるように、大聖人の法門は無限に展開し得るのであり、御書にのみ大聖人の法門の全てが示されていると執着することは浅見に過ぎない。
日寛上人が数多くの遺文を残されたのも、ある意味"御書の意義の展開"であろう。
しかして宗祖が仰せのように仏法は「相伝に非ずんば知り難」(『一代聖教大意』)いのであるが、その「相伝」とは日寛上人御自身が仰せのように、「『塔中及び蓮・興・目』等云々。」(『撰時抄愚記』)と続く相伝、すなわち唯授一人の血脈なのである。
大聖人の法門が無限に展開し得るということは、日寛上人以後の歴代上人も、時代状況に応じた新たな視点より法門の展開をなされる可能性が存在するとうことである。

・自身の会則・規則を変更して、これまで根本としてきたものを臆面もなく否定・削除する学会が、宗門の宗制宗規を云々するとは、身の程知らずで、盗人猛々しい醜面であり、おこがましい限りである。
その無恥・無慙さはおよそ正しい仏法を行じているものの姿とはいえない浅ましさである。