痴犬へ鉄槌 22  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 426()234840 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

当方> ▼1、該文は「袈裟数珠の事」(←日亨上人が題を付す)であり、この箇所は数珠の繰り方をお述べになった段である。
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> 2、痴犬は知って敢えて隠しているのか、または知らずに受け売りでコピペをして邪難しているだけの馬鹿だから分からないのか、この該文の前後を読めば、ここが単なる「数珠」に関しての意義であることは明白である。
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痴犬> ●ふ〜んそれがどうした?この部分に限り それを私がいつ否定したんだい?

●またもや馬鹿丸出しの附抜けた反問である。
「数珠」での題目の数の繰り方が、どれほど重要な「正法」だというのか。
しかも、痴犬の設問は、全く邪難の体すら為していない。
一体に痴犬は何を言いたいのか、全く意味不明でもある。

痴犬の頭破七分の駄文
> ● 三一世・日因上人は「近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之 を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ、」(富要集1-378)このような事を言ってい るが「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」のように法主信仰を唱える日因上人の説を用 いるのですか?日因が正しければ近代上人方は 邪義法主になる 近代上人方が正しけ れば日因上人は嘘つき法主になるが君はどちらの法主の言を用いるのだ?
>> 現宗門が「三宝抄」の三宝一体義を用いて法主崇拝を高唱することは、看過できない逸脱ではないのか?

1、「三一世・日因上人は「近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之 を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ、」(富要集1-378)このような事を言ってい るが」
⇒日因上人は、「数珠の繰り方において、近代上人方は天台真言流の影響を受けた要法寺流の繰り方をしておられたようなので、その化儀はどうかと思う。」と仰せである。←痴犬は「ふ〜んそれがどうした?この部分に限り それを私がいつ否定したんだい?」というのであるから、この意は否定していない。

2、この1、の引文の意味と、「「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」のように法主信仰を唱える日因上人の説を用 いるのですか?」との設問の意味が全く繋がらない。

痴犬の文を分かりやすくするとこうなる。

日因上人は「数珠の繰り方が近代上人はおかしかった」 と仰せであるが、「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」のように法主信仰を唱える日因上人の説を用 いるのですか?」

は〜〜〜?一体何を聞きたいのか?
前段と後段の文意が全く別物である。
これでは全く日本語の文章になっていない。
話にもならない。
まずはこの邪難の文の意味を、分かりやすく説明してみたまえ。
察するに、そこらじゅうの邪難文を切り貼りして来たが故に、全体として統一した文意になっておらず、しかも痴犬はよほどニセ本尊の害毒と三宝誹謗の罪報が頭の芯まで回っているようで、そのことにすら気がついてない。
重ねていうが心底 バカ である。
痴犬の頭破七分の文内にある要素は、以下の堕文内に散見される。

松岡堕落僧の駄文
▼「三一世・日因の代になると「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」「僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし」(要1192)などとして、ついに僧侶崇拝が三宝一体の論理をもって徹底されるに至っている。われわれは、現宗門の三宝一体論がこの日因の主張と同一の思想構造を持っていることに、いささか驚きの念を禁じ得ない。」

フェイク401号
▼日因は次のようにも書き残している。「目師御筆、道師御目録之レ有り、然る処に十八代日精上人御代之レを失ふ」と日目・日道上人の相伝を日精が失ったと告白している。
更に「当山の相伝之レを失ふ故に要法寺日大上人叡山相伝之レ有り、喜ハシ哉、悲イ哉、大衆方正法を守ると云へども近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ」と。

松岡脱落僧の駄文
▼阿部氏が「三宝抄」の三宝一体義を用いて法主崇拝を高唱することは、看過できない逸脱である。

特に最後の駄文などは全くのコピペである。

痴犬の駄文
「現宗門が「三宝抄」の三宝一体義を用いて法主崇拝を高唱することは、看過できない逸脱ではないのか?」

同じコピペでも全体の文意が通じれば殊更に問題とすべきでもないかもしれないが、痴犬のように、ニセ本尊の毒が回った頭で三宝誹謗しながら無理して張り合わせ、繋ぎ合わせするから、斯様な頭破七分な文となるのである。
恥ずかしい限りである。

邪難文を、今一度正しい日本語の文章に直して再挑戦してきたまえ。

さ、頑張ろう。