痴犬へ鉄槌 13  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 423()230354 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬『>  ☆おいおい〜〜〜 ハッキリせーや』

●↑何度でも言ってやるが、どんなに「ハッキリ」しようがしまいが、痴犬が成仏できるわけではない。
そいうことを些事というのである。

自分が事故で脳挫傷で意識混濁、内臓破裂で大出血、救急病院へ運ばれて生死を彷徨っているというのに、うわ言のように
「治療はいいから、まずこれを「ハッキリせーや」・・・・
30年前俺の勤めていた会社の部長と係長は仲が悪かった・・・あれは
@どんな誤解だったんだ・・・?
Aそしてその誤解を誰がしたんだ・・・?
Bそして・・いつ、何をもって円満に決着したんだ・・・?
C今の社長は円満に決着してると思ってんかい?・・その言葉をもってきな・・・・・ううう〜〜 」・・ガクッ、絶命・・・

というバカさ加減である。
こうまで頭が悪いと、天然記念物ものである。

もはや全く論じる必要なし。
一生騒いでいるが宜しい。
―――――――――――
痴犬> ●では三宝論は誰が確立したものなんだい?答えよ!
>
当方> ▼バカ犬には、やはり古文は難しいらしいな。
>
> ■「次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」
>
> ↑この御文がまさに大聖人の三宝論ではないか。
> 「バカにつける薬なし」とは京都の痴犬のための諺であったか。
>
痴犬> ●この御文で三宝論の確立?ギャッハハハハハー
> @一体三宝(内証)
>
> A別体三宝(外用)
>
> B住持三宝(化導)
> ↑@〜Bを
> 日寛上人が当流行事抄、当家三衣抄、三宝抄で論じられ大石寺門流の三宝論を確立されている
>
> マサシくんは正法伝持の僧(条件付)が述べられている四恩抄の御文をもって三宝論が確立されているらしい

●やはり予想通りの莫迦犬であったか。
この四恩抄の御文のどこに「条件付」とお示しなのか。
明示してみよ。
どこにも痴犬が勝手に言うような「条件」などない。
痴犬は妄想でも見ているのか。
それとも妄執深くして、明文が読めぬか。

■目の転ずる者、大山転ずと欲ふ。
とはまさに痴犬のことである。
さ、「条件」とやらを明示せよ。
―――――――――――
痴犬> ●いつ私が日興上人のみが僧だと言ったのか?明確に答えよ!いい加減な事を言うでない!
>
当方> ▼はい、ここも莫迦丸出しの愚昧さ爆発、といったところか。
> 現に痴犬は御法主上人をはじめ、現宗門の御僧侶の存在と意義を否定している。
> では現時では誰が「僧」なのか?
> 日興上人以外の誰を「僧」と言っているのか。明示せよ。
>
痴犬> ●維摩経にいわく「阿耨多羅三藐三菩提心を発せば、是即ち出家」とあり、出家自体には功徳も利益もなく、無上の仏法を求めて実践する人を「僧」というのである。
> 維摩経は方等部の経典にして、在家である維摩長者が、釈尊の十大弟子を初め出家の僧侶を二乗弾呵している内容の経典で、僧の本来の意味はこれである。
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●痴犬の愚かさ、大いに哂うべし。
下種仏法の出現の後に、「方等部の経典」である「維摩経」を引文して謗法の「自己正当化」しようとしても全く徒労である。
■末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し
とあるがごとく、大聖人の下種仏法の本義に違う文義はこれを用いないのである。

大聖人仰せである。

■だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。1118

檀那=在家
師=在家でない師匠=御僧侶⇒なかんずく御当代御法主上人
⇒御法主上人の御心に合わない祈りは、全く叶わない。
どんなに南無妙法蓮華経と題目を唱えても、それは身延・立正佼成会・霊友会などとお仲間であり、たとえ、日寛上人の御本尊を改竄して本尊らしく印刷したニセ本尊を拝んでも、師=御法主上人の御心に叶わない者には三毒強盛という「罰」こそあれ、功徳は全くないのである。

■此の三位房(さんみぼう)は下劣の者なれども、少分も法華経の法門を申す者なれば、仏の如く敬ひて法門を御尋ねあるべし。依法不依人(えほうふえにん)此を思ふべし。1047

三世を通暁される御仏が三位房の末路を知らぬわけが無い。
後に退転する三位房に対する姿勢でさへ、こうあるべしと、大聖人は仰せである。
これまさに、御当代上人(当時では大聖人がまさに猊下であられた)に随順する御尊師に「僧」分の大きな意義が備わるという意を表す文証である。

■『法華初心成仏抄』
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(新編一三一四n)

については既述
http://toyoda.tv/tciken17.htm
↑について痴犬の明確な反論が未だ為されていない。どうした?できなければ謝罪して脱会せよ。

■頭を剃り架裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是我が子なり。若し彼を過打すること有れば則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり。

についても既述
http://toyoda.tv/tciken19.htm
↑についても痴犬の明確な反論が未だ為されていない。どうした?できなければ謝罪して脱会せよ。

■「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。」1457

についても既述
http://toyoda.tv/tciken.saikai4.htm
↑についても痴犬の明確な反論が未だ為されていない。どうした?できなければ謝罪して脱会せよ。

■「末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。」1461

についても既述
http://toyoda.tv/tciken.saikai5.htm
↑についても痴犬の明確な反論が未だ為されていない。どうした?できなければ謝罪して脱会せよ。

■「後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。」1461

についても既述
http://toyoda.tv/tciken.saikai6.htm
↑についても痴犬の明確な反論が未だ為されていない。どうした?できなければ謝罪して脱会せよ。
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痴犬の引文
> 松野殿御返事「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり、此の経の修行に重重のしなあり其大概を申せば記の五に云く「悪の数を明かすことをば今の文には説不説と云ふのみ」、有る人此れを分つて云く「先きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり一に・慢二に懈怠三に計我四に浅識五に著欲六に不解七に不信八に顰蹙九に疑惑十に誹謗十一に軽善十二に憎善十三に嫉善十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し、過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行をば立てさせ給いしなり、法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてかくの如く礼拝し給う何に況や持てる在家出家の者をや、此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」

●またもや、痴犬、法門の骨子が分からぬから、的外れの引文である。
この松野殿御返事の御文は、十四誹謗の恐ろしさをお示しなのであり、その十四誹謗の罪過は僧俗に亘る、ということであり、別段「僧の定義」をお述べになった御文ではない。
全く古文が読めない痴犬は実に浅はかなものである。

同じ『松野殿御返事』には
■「法師品には『人有って八十億劫の間、無量の宝を尽くして仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説かん僧を供養して、後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし』と見えたり」(新編一〇四七n)
とある。
法華経=戒壇の大御本尊であるから、現時において「法華経を説かん僧」とは、御本尊の書写をされる権能を持たれる、まさに御法主上人の御事である。(広義には御法主上人に清浄な心根をもって随順する御尊師方でもある)

もちろん、痴犬ら創価学会などは、戒壇の大御本尊の御内証を相伝されておらないことは当然であり、のみならず、戒壇の大御本尊から遠く離れ、戒壇の大御本尊を身口意の三業相応して供養できない謗法者であるから、「法華経を説かん僧」であるわけがなく、「僧」分の資格など無いことは、世間・出世間の「常識」である。
そういう「法華経を説かん僧」を供養することの利益莫大であるということは、逆にいえば、誹謗する罪、また甚大ということである。
痴犬はもはや大きく口を開けた無間地獄への堕ち方の研究でもした方がいいかも知れぬ。

今日のところはここまで。
さあ、今晩以降、また痴犬の足掻く様が見物だな。

大いに頑張れ。