痴犬へ鉄槌 11  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 419()233611 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この段は痴犬の思考停止状態で、少し難解な法義だと借り物しかできないの猿真似のバカさ加減を大いに哂おう。
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↓松岡の駄文

▼ つまり、大石寺門流における末法下種の僧宝は、日蓮から三大秘法の相承を受けた日興をもって随一とするが、それ以降を考えると、歴代法主や門流の僧侶たちも僧宝の一分を担うものとされるのである。日寛の僧宝論に通底しているのは、僧宝たる資格が「開山」「座主」「歴代」等の立場ではなくして「付法」「伝法」「嫡々付法」の功績によって与えられる、とする論理である。

このことは、「当流行事抄」に日興の僧宝たるゆえんとして「開山上人の結要伝受の功」(要3214)が挙げられ、「三宝抄」では「付嘱伝授は即ち是れ僧宝也」(歴全4365)「金口相承は即ち是れ僧宝也」(歴全4372)と強調されるところからも明白である。

 その点を踏まえて言えば、金口相承の三大秘法義が六巻抄等の出版によって広く理論的に公開され、日寛の時代には唯授一人の秘書とされた「御本尊七箇相承」等も出版公開され、しかも曼荼羅本尊の体相や筆法について理解する法主の信仰上の意義が消失した現代において、伝法の担い手は法主や門流の僧侶にとどまらず、在家の信仰者にまで及ぶと考えなければならない。

「三宝抄」において僧宝の中に在家者が加えられなかった理由は、前述のごとく、日寛の頃の一般的在家者が「三重秘伝」に触れる機会のない「無知の俗男俗女」だったからである。
日寛の時代の在家像によって、三重秘伝の義理に精通した現代の多くの在家者の存在価値を推し量ろうとするのは甚だしい時代錯誤となろう。

五六世・日応は、唯授一人の金口相承に関して「優婆塞・優婆夷(在家の男女のこと=筆者注)に付するも何の妨げか之れあらん」(研教27514)とも述べている。元々、大石寺門流における金口相承の担い手は在家・出家にわたる可能性があるのだから、現在の状況を鑑みて在家者に伝法者たる意義を認めるのは当然である。
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↓痴犬の猿真似で、しかも愚にもつかない、別段その必要も無い手心を加えている、赤っ恥晒しただけの恥文。

> ●つまり、大石寺門流における末法下種の僧宝は、日蓮から三大秘法の相承を受けた日興 をもって随一とするが、それ以降を考えると、歴代法主や門流の僧侶たちも僧宝の一分 を担うものとされる。
日寛上人の僧宝論に通底しているのは、僧宝たる資格が「開山」 「座主」「歴代」等の立場ではなくして「付法」「伝法」「嫡々付法」の功績によって 与えられる、とする論理ではないのか?

>  このことは、「当流行事抄」に日興の僧宝たるゆえんとして「開山上人の結要伝受の功 」要3-214)が挙げられ、「三宝抄」では「付嘱伝授 は即ち是れ僧宝也」(歴全4-365 )「金口相承は即ち是れ僧宝也」(歴全4-372)と強調 されるところからも明白では ないのか?

>  金口相承の三大秘法義が六巻抄等の出版によって広く理論的に公開され、日寛上人の時 代には唯授一人の秘書とされた「御本尊七箇相承」等も出版公開され、しかも曼荼羅本 尊の体相や筆法について理解する法主の信仰上の意義が消失した現代において、伝法の 担い手は法主や門流の僧侶にとどまらず、在家の信仰者にまで及ぶと考えなければなら ない。

> ●五六世・日応上人は、唯授一人の金口相承に関して「優婆塞・優婆夷に付するも何の妨 げか之れあらん」(研教27-514)とも述べている。
元々、大石寺門流における金口相承 の担い手は在家・出家にわたる可能性があるのだから、現在の状況を鑑みて在家者に伝 法者たる意義を認めるのは当然である。
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では痴犬にお応えして、この段では、まず青年僧侶邪義破折班からの破折文を転載し、以って猿真似の恥文を摧破しよう。
その上で、当方の見解を次回付加する。
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 ここで悪書は▼日寛の僧宝論に通底しているのは、僧宝たる資格が「開山」「座主」「歴代」等の立場ではなくして「付法」「伝法」「嫡々付法」の功績によって与えられる、とする論理である≠ネどと柄の無い所に柄をすげるが如き珍妙な論理を展開している。
 そもそも僧宝を立場≠ニ功績≠ノ分けて論ずることなど出来ようはずはない。
日興上人以下、御歴代上人は大聖人の血脈を御所持される「立場」より、「付法」「伝法」「嫡々付法」の功績≠ェ自ずと具わるのであり、唯授一人血脈相承を離れて、「付法」「伝法」「嫡々付法」の功績≠ェ存在するのではない。

大聖人は日興上人への御付嘱状二通に、
  ■日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。(日蓮一期弘法付嘱書・新編一六七五頁)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。(身延山付嘱書・同頁)

と、それぞれ「大導師」たるお立場と、「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」と、大聖人滅後は僧俗ともに日興上人の御指南に添い奉るべしという、大聖人正統の後継者たる地位を付嘱されているのである。
この厳正な御付嘱には、功績の如何によって僧宝か否かが決せられるといった、ふざけた議論を差し挟む余地は毛頭ない。

 また、『諸法実相抄』に、
  ■天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出だし給ふまではなし、胸の中にしてくらし給へり。其れも道理なり、付嘱なきが故に、時のいまだいたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に(新編六六四頁)

と仰せある如く、天台・妙楽・伝教が本因名字の妙法を知りながら説き顕さなかった所以は、付嘱の有無等、立場の違いによるのであると明確に御指南されている。
即ち法門を単に知るということと、実際に法門の体現者として法を所持し弘宣するということは、意義において大きな異なりが存するのである。
仏法の伝持弘教は付嘱によることを知れ。

 よって日寛上人は『三宝抄』に、
  ■所謂僧宝とは日興上人を首と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なる故なり。一大事の秘法に於ては尚自余の五人に授与せず何に況や其の已下をや。唯日興一人に譲り玉ふ故に唯授一人の相承と名づく。譬へば本化の如し(中略)世の一子相伝の如し(歴全四三八五頁)

と御指南されている。
つまり大聖人が付弟日興上人一人を選んで唯授一人の秘法を血脈相承遊ばされた意義は、末法万年に大聖人の仏法を令法久住せしめるため、御本仏大聖人自らが定められた絶対の方軌であり、唯授二人、唯授三人などではない。
まして大衆などということは、絶対にあり得ない道理なのである。

 創価学会のみならず現代の異流義たる顕正会・正信会も『六巻抄』や『富士宗学要集』に掲載されている相伝書等をそれぞれ邪信邪解によって悪用している。
しかし創価学会や、正信会、顕正会の魑魅魍魎がいくら異流邪義を正当化するために、『六巻抄』等をもとに我田引水の論理を組み立てても、邪義は邪義なのである。
まさに糞をもって仏像を作るが如きである。

そのことは松岡らが永遠の指導者≠ニ諂う池田大作が、自らの都合で三宝義を変節させる「二枚舌の指導者」であることからも歴然である。

 また、悪書では日寛上人の『三宝抄』の、
  ■日興上人嫡々写瓶の御弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦爾なり云云。(歴全四三九〇頁)

等の文について僧宝の意義が
▼日興以外にも拡大できることを示唆≠オたものであるとし
▼大石寺門流における末法下種の僧宝は、日蓮から三大秘法の相承を受けた日興をもって随一とするが、それ以降を考えると、歴代法主や門流の僧侶たちも僧宝の一分を担うものとされる
▼三大秘法義が六巻抄等の出版によって広く理論的に公開され、日寛の時代には唯授一人の秘書とされた「御本尊七箇相承」等も出版公開され、しかも曼荼羅本尊の体相や筆法について理解する法主の信仰上の意義が消失した′フに、
▼大石寺門流における金口相承の担い手は在家・出家にわたる可能性があるのだから、現在の状況を鑑みて在家者に伝法者たる意義を認めるのは当然である≠ニして現在は在家が主体的な僧宝であるとするのである。

 これはまさに主客転倒の邪義である。
日寛上人が門流の僧侶にも僧宝の意義が具わるとされたのは「嫡々写瓶」即ち、大聖人以来の唯授一人血脈相承が根本にあるが故に、「日興上人(中略)日目日道代々咸く是れ僧宝」と御歴代上人を挙げられるのである。
そしてその次に「門流の大衆」と示されるのであり、ここには自ずと血脈相承を根本とする筋目が明らかに拝され、御歴代上人を差し置いて「門流の大衆」が僧宝になる道理など微塵もない。
まして血脈付法の御法主上人に背く創価学会のような似非宗教団体の在家者に伝法者たる意義≠ネどあるはずがない。
為にする文意のすり替えもいい加減にせよ。

 また、日應上人が
  ■優婆塞優婆夷に付するも何の妨げか之れあらん(研教二七五一五頁)

と仰せられた意味は、八世日影上人が御相承を伝えるべき人がなく、やむを得ず油野浄蓮という在家者に血脈相承を遊ばされたという伝説について述べられたものである。
この伝説について五十九世日亨上人は時代考証の上に、
  ■油野浄蓮という人は日有上人に関係の深い人であった。ですけれどもね、その年代が、日有上人の晩年に、油野浄蓮がいたんですからね。ですから、その浄蓮に影師が血脈を伝えるとなると年代があわない。(大白蓮華 昭和三一年一一月号一一頁)

と、この伝説が誤伝であることを述べられている。
この浄蓮にまつわる伝説が誤伝である以上、浄蓮への相承の有無などは全く不毛の論である。
しかし日應上人は、
  ■鳴呼妄弁者よ汝は之を以って根源の本山、即ち吾が大石寺に於いては血脈断絶せりとでも云ふの意なるか。夫れ鹿を逐ふ猟師が目に山を視ずとは此の謂ひか(研教二七五一三頁)

と仰せられ、木を見て森を見ずの愚を犯すべからずと、血脈を否定せんとする妄弁者を一喝されるのである。
その上で、もし血脈を伝うべき弟子がなければ、たとえ浄蓮のような篤信の在家者を新発意として出家させてでも、唯授一人の血脈を伝えなければならないのであるという、令法久住への強い御意を述べられているのである。
松岡の言う如き、在家者への血脈相承を是とされているわけではない。