痴犬へ鉄槌 10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 419()21076 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

痴犬> ●また日寛上人は、末法下種の三宝のうち僧宝に関して、その意義のうえから対象範囲を 日興以外にも拡大できることを示唆している。
「当家三衣抄」では「南無仏・南無法・ 南無僧とは」と記された後、門流の三宝が説明され、僧宝について「南無本門弘通の大導師・末法万年の総貫首・開山・付法・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法・日 目上人師、嫡々付法歴代の諸師」と記されている(富要集3-238)。
ここでは、「伝法 」「嫡々付法」という僧宝の意義を持った存在として、日目をはじめとする歴代法主が 挙げられている。
さらに「三宝抄」には「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の 大衆亦爾也云云」(歴全4-390)と記され、末法下種の僧宝として日興以外に「日目・ 日道代々」の歴代法主、そして「門流の大衆」=門流の僧侶全般までが列記されている 。

●ここも松岡某の愚悪脱落僧の駄文と全同である。
ここは、単なる説明、あるいは知識のひけらかし程度の部分であるので、特に破折する必要は無い。

であるから、「痴犬への鉄槌 9」のつづき 大聖人御自らの、また、上古の正系門家に既に三宝の意義が明確であった文証を挙げる。

■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

僧を謗ることがそのまま謗法になる。ということは、まさに「僧」が尊信の対象である証左である。
逆に言えば、謗法とは成仏の妨げとなる行為・念慮、という意義であるから、「僧」を謗ることが謗法ということは、「僧」が成仏のために不可欠の存在であること明示されている御文である。
であるから、「僧」が「仏」と並び表わされており、下種三宝として仏と一体という意義であり、故に次下に「三宝一体」と仰せなのである。
しかもその「三宝一体」の本義が二祖日興上人のみに限らず、以後の「僧」にも永久にあてはまることは、
■僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。
との御文に明確である。
その意義は、「痴犬への鉄槌 9」に詳述してある。
さらに、
■然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。
との御文に末法万年への妙法流伝のために大聖人滅後の「三宝一体」の「僧」の意義が説き置かれているのである。
またこの義を別の御文では
■此の経は相伝に有らざれば知り難し。
と仰せの通り、別しての血脈=唯授一人の御相伝を伝持された「僧」を通して=尊信して、始めて「総じての血脈=信心の血脈による功徳・領解等」が通い、拝受することが出来るのである。
詳しくは↓を参照
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#16
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#18

であるから、
■日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す
と末法万年への三秘流伝の始として二祖日興上人へ唯授一人・血脈相承なされ、
■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
と、さらに入念に、その未来永劫に亘っての仏法流伝の方式に背く魔族どもを予め破折の鉄槌で打ち砕かれておられるのである。
この
■血脈の次第日蓮・日興
との奥伝は
■仏宝・法宝は必ず僧によて住す
との意義より、日興上人の後は次の唯授一人・血脈相承される「僧」の方へ伝持されるのである。
それは御文中の「次第(=物事が行われる際の一定の順序。)」という御言葉にも大聖人の御心が拝される。

そこで、日興上人は大聖人の御心のままに、第三祖日目上人へ
■    日興跡条々事   元弘二年一一月一〇日
 一、本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目
  嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。
 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
 一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

と大聖人から受け継がれた仏法の一切を御相伝されるのである。

日興上人の御心としての末代永劫に唯授一人・血脈相承の「僧」を三宝一体の下種三宝尊として尊信すべき対象であるとの御指南は
日興上人『御本尊七箇相承』
■『日蓮在御判と嫡嫡(ちゃくちゃく)代代と書くべしとの給う事如何(いかん)。師の曰(い)わく、深秘なり、代代の聖人悉(ことごと)く日蓮なりと申す意なり』(聖典三七九頁)
の如くに明確である。

しかもこの御指南と同義の御文は
■但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。
に鮮明である。
なお、「この御文は後加文であるから信用するに足らぬ」との痴論は、
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#27
で完摧済みである。

さらに以下の御指南及び永遠の指導者池田センセ〜〜の発言は絶対なのだそうだからその指導により、完摧の上、粉々に粉砕である。
■65日淳上人
百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

▼3【池田指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

さらに
日有上人『化儀抄』
■ 「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし」(日蓮正宗聖典九七四n)
(他、類文繁多であるが煩瑣になるのでここでは略す)
等に明示されているように、大聖人・日興上人・・・日有上人・・と上古から中古にかけて既に「三宝」の意義は明確であり、不動だったのであり、峻厳な大石寺門流の修行についていくことができずに脱落した魔僧・松岡某などの堕論など、全く話にもならない瞑義である。