【曼荼羅御本尊】

================
本尊

根本尊崇  根本的に尊崇すべきもの
本来尊重  無始以来の過去より厳然として、本来尊重すべきもの
本有尊形  遥かなる永遠の昔から未来永劫に続く尊い形相であるということ

■仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。(中略)余は二十七年なり。(聖人御難事 弘安二年一〇月一日 五八歳 1396)

■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 661)

"一閻浮提第一の本尊"とは文字通り、「ただ御一幅の本尊」

ということである。
"第一"とは二もなく三もなし。との意である。

この類文は繁多である。

■ 本尊とは勝れたるを用ふべし。(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳 1275)

これは、最極・最勝・最尊の本尊を用いなさい。ということである。

"最も勝れている"ということはただ御一体の御本尊のことである。

常識から言っても、最も勝れているものが二つ以上在る道理はない。

■ 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(就註法華経口伝(御義口伝)1773)

========================

【白法隠没】

■『大集経』分布閻浮提品に

■「次の五百年は(※第五の五〇〇年)、我が法の中に於て、闘諍言訟して白法隠没し損減すること堅固ならん」

『法華経薬王品』に

■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん」

と説かれ、釈尊入滅後、2000年から2500年の間に、「末法の法華経」が建立され、広宣流布することが預言されています。

更に『妙法蓮華経如来神力品第二十一』に

■爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽すこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。

と説かれ、釈尊の一切の仏法を、上行菩薩を代表として、その他の眷属の菩薩方へも付嘱されたことが明示されています。

以上の教説から、釈尊の仏法は上行菩薩の再誕者によって再興、もしくは立教されることは、釈尊の自らの言として明白です。

=================

【神社は魔の棲み家】

金光明(こんこうみょう)経に云はく

■「其(そ)の国土に於て此の経有りと雖(いえど)も未だ嘗(かつ)て流布(るふ)せず。捨離(しゃり)の心を生じて聴聞(ちょうもん)せんことを楽(ねが)はず、亦(また)供養し尊重(そんじゅう)し讃歎(さんだん)せず。四部(しぶ)の衆、持経(じきょう)の人を見るも、亦復(またまた)尊重し乃至(ないし)供養すること能(あた)はず。遂に我等(われら)及び余の眷属(けんぞく)、無量の諸天をして此の甚深(じんじん)の妙法を聞くことを得ず、甘露の味(あじ)はひに背き正法の流れを失ひて、威光及以(および)勢力(せいりき)有ること無からしむ。悪趣(あくしゅ)を増長(ぞうちょう)し、人天(にんでん)を損減して、生死(しょうじ)の河に堕(お)ちて涅槃の路(みち)に乖(そむ)かん。世尊、『我等四王(しおう)並びに諸(もろもろ)の眷属及び薬叉(やしゃ)等、斯(か)くの如き事(じ)を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。但(ただ)我等のみ是(こ)の王を捨棄(しゃき)するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉(ことごと)く捨去(しゃこ)せん。既(すで)に捨離し已(お)はりなば其の国当(まさ)に種々の災禍(さいか)有りて国位を喪失(そうしつ)すべし。※1』一切の人衆皆(みな)善心無く、但繋縛(けばく)・殺害(せつがい)・瞋諍(しんじょう)のみ有って、互ひに相讒諂(あいざんてん)して枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。疫病(やくびょう)流行し、彗星数(しばしば)出で、両の日並び現じ、薄蝕恒(はくしょくつね)無く、黒白(こくびゃく)の二虹不祥(にこうふしょう)の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉(ききん)に遭(あ)ひて苗実成(みょうじつみの)らず、多く他方の怨賊(おんぞく)有りて国内を浸掠(しんりょう)せば、人民諸(もろもろ)の苦悩を受けて、土地として所楽(しょらく)の処(ところ)有ること無けん」已上


大集経

■「是くの如き不善業(ふぜんごう)の悪王・悪比丘、我が正法(しょうぼう)を毀壊(きえ)し、天人の道(どう)を損減し、『諸天善神・王の衆生を悲愍(ひみん)する者、此の濁悪(じょくあく)の国を棄てゝ皆悉く余方に向かはん※2』」已上。

大集経

■「若(も)し国王有りて、無量世(むりょうせ)に於て施戒慧(せかいえ)を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護(おうご)せずんば、是くの如く種(う)うる所の無量の善根悉く皆滅失(めっしつ)して、其の国当(まさ)に三(み)つの不祥の事(こと)有るべし。一には穀貴(こっき)、二には兵革(ひょうかく)、三には疫病なり。『一切の善神悉く之を捨離(しゃり)せば、※3』其の王教令(きょうりょう)すとも人随従(ずいじゅう)せず、常に隣国の為に侵・(しんにょう)せられん。暴火(ぼうか)横(よこしま)に起こり、悪風雨多く、暴水増長して、人民を吹o(すいひょう)せば、内外(ないげ)の親戚其れ共に謀叛(むほん)せん。其の王久しからずして当に重病に遇(あ)ひ、寿終(じゅじゅう)の後大地獄の中に生ずべし。乃至王の如く夫人(ぶにん)・太子・大臣・城主・柱師(ちゅうし)・郡守・宰官(さいかん)も亦復(またまた)是くの如くならん」已上。



■『我等四王(しおう)並びに諸(もろもろ)の眷属及び薬叉(やしゃ)等、斯(か)くの如き事(じ)を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。但(ただ)我等のみ是(こ)の王を捨棄(しゃき)するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉(ことごと)く捨去(しゃこ)せん。既(すで)に捨離し已(お)はりなば其の国当(まさ)に種々の災禍(さいか)有りて国位を喪失(そうしつ)すべし。※1』

■『諸天善神・王の衆生を悲愍(ひみん)する者、此の濁悪(じょくあく)の国を棄てゝ皆悉く余方に向かはん※2』

■『一切の善神悉く之を捨離(しゃり)せば、※3』

との如く、既に国土には諸天善神が棲んでいない、と述べられています。

===============

【邪師】


■「涅槃経に云く「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」」

■天台は「若し深く所以(ゆえん)有りて、復修多羅(しゅたら)と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」と判じ給へり。又云はく「文証無きは悉(ことごと)く是邪謂(じゃい)なり」とも云へり。いかゞ心得べきや。(持妙法華問答抄 弘長三年 四二歳 294)

===================

【身延参詣】

■「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(日興上人・美作房御返事)


=====================

【仏所護念】

久保角太郎は、兄の知人を介して西田利蔵(西田無学)なる人物の教えを知り、これに強い影響を受けました。この西田なる人物は、仏所護念会(関口嘉一が作った、現在の同名の会とは異なる)という新興宗教を立ち上げた人物です。

西田利蔵は、法華経の経文「平等大慧 教菩薩法 仏所護念」の「仏所」を亡くなった人間の霊がいるところと解釈し、「仏所護念」とは、霊のいる場所を護り、念ずることであり、これこそが「先亡諸精霊供養法」であると主張しました。


破折

「教菩薩法 仏所護念」は、訓読すると

■「(諸の菩薩の為に、大乗経を説きたもう。無量義と名づくるなり。)菩薩を教うる法にして、仏の護念したまう所なり」

天台大師『法華文句』

■「仏所護念とは、無量義処(むりょうぎしょ)は是(これ)仏の証得(しょうとく)したまう所なり。是(こ)の故に如来(にょらい)の護念したまう所なり」

「仏所護念」とは「正覚(しょうかく)の仏(釈尊)が護(まも)り念じてこられたところの法(法華経のこと)」

法華経・見宝塔品

■「釈迦牟尼世尊、能(よ)く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以(もっ)て大衆の為に説きたもう。」

「釈尊の説法はすべて真実である」と証明した多宝如来の言葉。
「菩薩やあらゆる人々を平等に救うべき真実の法を、仏は長い間護り念じてきた。その護念してきた妙法を、釈尊は時来たって大衆に説くのである」

ところが西田利蔵は、「仏の護念したもう所の妙法」と読むべきを「仏の所を護念する」と読んでしまい、しかも仏を「先祖の霊のこと」と解釈するという信じがたい愚迷を犯しました。
このように西田は、「死んだ人の霊がいる所を護り、念ずること」というデタラメ勝手な解釈をして、独自の先祖供養法の根拠として主張したわけです。霊友会の教義はこうした誤った解釈を元としているゆえに、法華経を信奉しているようなフリをしながら、実は法華経の意(こころ)を殺すものです。
しかも霊友会は、「仏所護念」に関する西田のデタラメ解釈をはじめ、あらゆる西田流教義をほぼそのまま霊友会の教義として流用していながら、その事実を公表していません。
霊友会の出版物のどこにも、西田利蔵の名は出てきません。そのことを知られたくないのでしょうか。


====================

【在家仏教】

■涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解(さと)り、外には清浄(しょうじょう)の檀越(だんのつ)有って仏法久住(くじゅう)せん」

■末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。1461