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    忘持経事  建治二年三月三〇日  五五歳

 忘れ給ふ所の御持経(ごじきょう)追って修行者に持たせ之を遣(つか)はす。
 魯(ろ)の哀公(あいこう)云はく「人好く忘るゝ者有り。移宅(わたまし)に乃(すなわ)ち其の妻を忘れたり」云云。

(※中国古代の王、?〜BC468 中国春秋時代の魯第25代王。孔子が一時仕えた王。国力弱く、呉・斉(せい)の侵略を受けていた。また王の実権も弱く、三桓(かん)氏が勢力をもっていた。貞観政要巻三に以下の文がある)

孔子云はく「又好く忘るゝこと此より甚しき者あり。桀紂(けっちゅう)の君は乃ち其の身を忘れたり」等云云。

(※夏の桀王は民を苦しめ、妃の・喜(ばつき)に溺れて悪行をしたため、殷の湯王(とうおう)に滅ぼされた。
殷の紂王は酒色に溺れ、妲己を盲愛して乱行を尽くしたため、周の武王に滅ぼされた。)

夫(それ)槃特尊者(はんどくそんじゃ)は名を忘る。
此閻浮(えんぶ)第一の好く忘るゝ者なり。
今常忍(じょうにん)上人は持経を忘る。
日本第一の好く忘るゝの仁か。

大通結縁(だいつうけちえん)の輩(ともがら)は衣珠(えじゅ)を忘れ、三千塵劫(じんごう)を経て貧路(ひんろ)に踟u(ちちゅう)し、

(※貧人繋珠の譬 )

久遠下種の人は良薬を忘れ、五百塵点(じんでん)を送りて三途(ず)の嶮地(けんじ)に顛倒(てんどう)せり。

今の真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失(もうしつ)し、未来無数劫を経歴(きょうりゃく)して阿鼻(あび)の火坑(かきょう)に沈淪(ちんりん)せん。

此より第一の好く忘るゝ者あり。
所謂(いわゆる)今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗(ひぼう)し念仏者等を扶助(ふじょ)する是なり。
親に背(そむ)きて敵に付き刀を持ちて自らを破る。
此等は且(しばら)く之を置く。

 夫(それ)常啼(じょうたい)菩薩は東に向かひて般若(はんにゃ)を求め、
善財(ぜんざい)童子は南に向かひて華厳を得る。
雪山の小児は半偈(はんげ)に身を投げ、
楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)は一偈に皮を剥(は)ぐ。
此等は皆上聖大人なり。
其の迹(あと)を検すれば地住(じじゅう)に居し、其の本を尋ぬれば等妙(とうみょう)なるのみ。
身は八熱に入りて火坑(かきょう)三昧(まい)を得、心は八寒に入りて清凉(しょうりょう)三昧を証し、身心共に苦無し。
譬(たと)へば矢を放ちて虚空(こくう)を射(い)、石を握りて水に投ずるが如し。

 今常忍貴辺(きへん)は末代の愚者にして見思未断(けんじみだん)の凡夫なり。

(※見惑・思惑)

身は俗に非ず道に非ず禿居士(とくこじ)。
心は善に非ず悪に非ず羝羊(ていよう)のみ。

(※雄の羊、愚かで分別のつかない者)

然(しか)りと雖(いえど)も一人の悲母(ひも)堂(どう)に有り。
朝(あした)に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返る。
営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。
而(しか)るに去月下旬の比(ころ)、生死の理(ことわり)を示さんが為に黄泉の道に趣(おもむ)く。
此に貴辺と歎いて云はく、
「齢(よわい)既に九旬に及ぶ。子を留めて親の去ること次第たりと雖も、倩(つらつら)事の心を案ずるに、去りて後は来たるべからず、何れの月日をか期(ご)せん。
二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。」
離別忍び難きの間、舎利(しゃり)を頚(くび)に懸(か)け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。

(※下州 下総国(しもうさのくに) 千葉県北部 茨城県の一部 富木 大田乗明 曾谷教信 など住み弘教の拠点となっていた)

其の中間往復千里に及ぶ。
国々皆飢饉(ききん)して山野に盗賊(とうぞく)充満し、宿々(しゅくしゅく)糧米(ろうまい)乏少(ぼうしょう)なり。
我が身贏弱(るいじゃく)にして所従亡きが若(ごと)く

(※ 贏弱 あまりに弱い)

牛馬(ごめ)合期(ごうご)せず。

(※合期せず 思うようにならない)

峨々(がが)たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。

(※峨々 山が高くそびえ立つさまや大きな岩が険しい様子)

高山に登れば頭(こうべ)天にx(う)ち、幽谷(ゆうこく)に下れば足雲を踏む。
鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。
眼眩(くるめ)き足冷ゆ。
羅什(らじゅう)三蔵の葱嶺(そうれい)、

(※インド北方、パミール高原。世界の屋根と言われる。西域交通路の要所。隊商や僧侶が通る。)

役(えん)の優婆塞(うばそく)が大峰も只今なりと云云。

(※舒明天皇6年(634)〜?大和の人。名は小角(おづぬ)。役の行者とも。修験道の開祖。幼少から生駒山、熊野に入り、苦行を続け、32歳の時、葛城山へ入った。以来30余年、穴居して巌窟の中に孔雀明王の像を安置し、呪を唱えて奇異な験術を得た。後に大峰、二上、高野など近畿一帯の高山に足跡をしるした。文武天皇の3年(699)に伊豆に流罪。後に許され西国に。その後の消息は不明。)

 然(しか)る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室(あんしつ)を見るに、法華読誦(どくじゅ)の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。
案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌(がっしょう)して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽(たちま)ちに息(や)む。
我が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。
譬へば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影との如し。
教主釈尊の成道は浄飯(じょうぼん)・摩耶(まや)の得道、吉占師子(きっせんしし)・青提女(しょうだいにょ)・目・尊者(もっけんそんじゃ※神通第一)は同時の成仏なり。
是(か)くの如く観ずる時無始(むし)の業障(ごうしょう)忽ちに消え、心性(しんしょう)の妙蓮忽ちに開き給ふか。
然(しか)る後、随分に仏事を為(な)し、事故無く還(かえ)り給ふ云云。
恐々謹言。

富木入道殿

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※ 須梨槃特(すりはんどく)のお話

釈尊在世の弟子の一人とされ、修利槃特(しゅりはんどく)とも言われる人の話をしてみましょう。

大変に聡明であった兄と共に須梨槃特は釈尊に弟子入りしますが、弟の須梨槃特は釈尊の弟子の中で最も物忘れが激しく「健忘第一」とされ、自分の名前すら覚えられない程の愚か者であったそうです。

須梨槃特は自分のあまりの愚かさに釈尊に破門を願い出ましたが、釈尊は「自らの愚かさに気付いたのだから、お前はもう愚か者ではない」と述べられました。
そして「須梨槃特よ、私はお前の愚直さを知っている。それはお前の宝にしなさい。お前には特別な修行を与えてあげよう。これで毎日私の弟子たちが集う精舎の掃除をしなさい」延べ、釈尊は須梨槃特に箒とちり取りを与えました。「その時には塵を払え、垢を除けと唱えるのですよ」と釈尊は須梨槃特に教示します。

それを言われた須梨槃特は釈尊から頂いた箒とちり取りを我が宝のように大事に使いながら毎日欠かさず弟子たちが集う精舎の掃除を続けました。
そして釈尊から言われた言葉を一心に唱え続けたのです。

誰よりも早く来て何かブツブツ言いながら掃除をしている須梨槃特の姿を弟子たちは見かけると、奇妙に思って、中にはバカにして声をかける弟子もいました。

「よう、須梨槃特よ。せいぜいお前もお前なりにしっかり修行すればそれなりになんとかなるだろうよ」と・・・。

それでも須梨槃特は激励されたと思って嬉しくて「ありがとう!」とお礼を言って、他の弟子たちが気持ち良く修行出来るようにせっせと掃除に励みました。
須梨槃特には人をバカにする心がなかったので、自分が人にバカにされてることを知ることもなかったのです。

ある少し風の強い日にふと須梨槃特はこう思いました。
「昨日も庭をキッチリ綺麗に掃除したのに、なぜ毎日こう汚れるのだろう・・・昨日あんなに綺麗に掃除したことが無駄だったのか?いや違う、昨日は昨日で汚れていたのだから掃除は必要だった。それに私はお釈迦様に毎日掃除をしなさいと言われているのだから、そんなことで文句を言ったり悩むべき身分ではない」・・・

そしてこういう思いに行き着くのです。

「お釈迦様にそう言われてるはずなのに私は怠けることを一瞬でも思ってしまった。とんでもないことだ!そうか!真に払い除くべきものは、実は自分の心の中の塵であり垢なのだ!一瞬でも修行を怠ると、心というものはどんどん汚くなる。一生涯私はここの掃除と共に私の心の掃除を続けよう!愚かな私にだってそれなら出来るじゃないか!本当に有難いことだ、有難いことだ」と・・・。

そしてやがて須梨槃特は他の弟子たちよりも早い時期に釈尊から記別を与えられ、阿羅漢果を得たとされます。
その彼の姿は今までと何ら変わりはないのですが、彼をバカにしていた弟子たちも深く心を改め、思わず彼に手を合わすほどなぜか神々(こうごう)しかったと言われます。

「 さて、皆様もよく御承知のとおり、法華経の五百弟子受記品第八に、法華七喩の一つである「貧人繋珠の譬え」、これを衣裏珠の譬えとも、衣裏繋珠の譬えとも言いますが、この貧人繋珠の譬えが説かれております。

 これは、ある人が親友の家を訪問してお酒をごちそうになり、すっかり酔って眠ってしまったのであります。この時、官吏であったその親友は、仕事のために出かけなければならなくなり、酔って眠っている友人の衣服の裏に、無価の宝珠、つまりこの上なく高価な宝珠を縫いつけて出ていったのであります。

 しばらくして酔いから覚めた友人は、酔っていたため何も気づかず、親友の家を辞して諸国を放浪し、衣食にも事欠く有り様で、衣食を求めては艱難辛苦し、少しばかりのものを得ては、それで満足してしまう浅ましい生活を続けていたのであります。

 そののち、その友人は親友と再会することになりましたが、その親友は友人のみすぼらしい姿を見て大いに驚き「なんで、そんなみすぼらしい姿をしているのか。以前、なんでも思いどおりになるようにと、高価な宝珠を汝のために衣服の裏に縫いつけておいたのに、気がつかなかったのか。今もなお、その宝珠はあるではないか。それも知らずに苦しみ、悩んでいることは、はなはだもって癡かである。汝は今、この宝を売ってお金に換え、必要なものを買ったなら、自分の思うとおりの楽しい生活ができるはずだ」と言われ、初めてそれに気がついたその友人は、ようやく無価の宝珠を得ることができたという話であります。

 この話のなかで、諸国を放浪して食べることと着ることだけにあくせくとして毎日を送っていた者が、ときたま、少しばかりの物を得て、それで満足してしまったということは、小乗の悟りのなかで満足してしまい、阿羅漢の他に安住して仏に成るべき努力をしなかった五百人の声聞の弟子達のことで、それ以上を求めようともしなかったことを恥じて、自らこの譬え話を語っているのであります。

 また、身に高価な宝珠を着けながら、それを覚らず、知らずにいたということは、せっかく仏性を持ち、仏と成るべき身でありながら、無智なるが故にそれを覚知できなかったということであります。

 しかし、のちに衣服の裏に無価の宝珠のあることを知り、すなわち仏様の真実の教えを知って、初めて成仏の大利益を得ることができたのであります。

 今、悪世末法の世の中を見ますると、この譬え話にあるように、衣食のみに目を奪われ、しかも少しばかりの物を得てそれで満足をして、三世にわたる真の幸せを求めようとせず、一日一日を無為に過ごしている人達。また、自分自身に具わっている仏性という、無限の可能性を秘めた価値ある宝珠を持っていることに気がつかずにいる人達。苦しみや悩みを抱えて疲労困憊し、自分自身では解決の糸口も見いだせず、悶々として毎日を送っている人達。その上、他の人がせっかく手を差し伸べているのさえ気がつかないでいる人達。また、間違った教え、謗法が不幸の根源であることも知らず、いまだに三宝破壊の池田創価学会をはじめ間違った教えに毒されて、抜け出せずにいる人達があまりにも多くいるのではないかと思います。

 このような人達に対して、不幸の根源である謗法の害毒を取り除き、一切衆生に本来的に具わっている仏性の存在と尊厳を悉知せしめ、正しい大聖人の仏法に帰依せしめていくのが、今日における我らの重大なる使命であります。」

(大日連平成19年9月号35〜37ページ)




「 法華経五百弟子受記品第八を拝しますと、

  「我昔、汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、某の年日月に於て、無価の宝珠を以て、汝が衣の裏に繋けぬ。今故、現に在り。而るを汝知らずして勤苦、憂悩して、以て自活を求むること、甚だ為れ癡なり」(法華経三〇四ページ)と説かれています。

 これは「衣裏繋珠の譬え」の一文でありますが、此の文の如く、世人の多くは、自己の生命内に至極の仏性を内在していても、仏性のあることすら知らず、目先のことに囚われて、徒に勤苦、憂悩しているのが現状であります。

 つまり、苦悩と不幸を招いている原因は、一つには、己自身に成仏の可能性を秘めた仏性が内在していることを知らずにいることであります。

 但し、仏性はその存在を覚知しただけでは、仏性としての働きを示さず、正しい教法、すなわち末法の御本仏大聖人の仏法に縁してこそ、仏性が仏性としての働きを示し、その人の境涯は大きく変わってくるのであります。

 しかし、末法の衆生は邪義邪宗の害毒によって毒気深入して正法の功徳を理解し難く、故に正法を説くに当たっては、只折伏を以てすることが大事なのであります。」

(大日連平成19年1月号4〜5ページ)