浅井昭衛は昭和60年に以下のように発言している

▼昭和60年2月23日 本部会議における浅井会長指導

顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。(中略)妙信講に解散処分が下された時、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるよう願い出た。
松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた
大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人書写の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。
この七幅の常住御本尊とは、
・二十八代日詳上人
・五十四代日胤上人
・五十五代日布上人
・五十六代日応上人
・六十代日開上人
・六十四代日昇上人

等の歴代上人御書写の御本尊であり、
このうちの日布上人書写の御本尊が高知会館に御安置されたのである。

また御形木御本尊については、宗門の全末寺において昭和四十年までは日寛上人の御本尊が下附されていたが、四十一年からは日達上人の御形木御本尊に替わった。
松本尊能師は四十年以降この日寛上人の御形木御本尊を妙縁寺に秘蔵しておられたが、私の願い出により、これをすべて託して下さったのである。
いま、顕正会において、地方における入信勤行の際に幹部が奉持する御本尊も、また地方拠点に御安置される御本尊も、みなこの日寛上人の御本尊様である。」
(顕正新聞 昭和60年3月15日号)


ところが、昭和49年に以下のように発言しているのである。

「解散させられても、末寺で御本尊を下げてくれなくても、折伏は出来るのです。折伏は形式ではない。
(中略)御本尊をお下げしないのは宗務院が悪い」(顕正新聞・昭和49年10月25日号)


ここで時系列を整頓してみよう。

49年8月12日 妙信講 解散処分
49年10月25日 解散させられても、末寺で御本尊を下げてくれなくても、折伏は出来るのです。折伏は形式ではない。
(中略)
御本尊をお下げしないのは宗務院が悪い
49年11月4日 浅井昭衛信徒除名処分
49年12月25日 日蓮正宗妙縁寺の住職
松本日仁(まつもとにちじん)
擯斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放すること)
52年6月 松本日仁氏 死去
60年2月23日 浅井昭衛発言「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。


この年表を元に事実関係を整理するとこうなる。

昭和49年8月12日 顕正会の前身である妙信講は解散処分された。
その後は日蓮正宗末寺=所属していた妙縁寺の松本日仁僧侶から新入信者のための御本尊下付はされなかった。
同年12月25日松本僧侶は日蓮正宗から擯斥される。
昭和52年6月に松本元僧侶は死亡。
それから実に8年も経ってから浅井昭衛は突如、▼「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与された」と宣言した。

これは一体どういうことか?
世間で言うところの「死人に口なし」ではないか。
つまり、妙信講が解散処分を受けた後、浅井昭衛は松本元僧侶からそもそも御本尊を下付されていなかったにもかかわらず、松本元僧侶の死去後、8年も経ってから、▼「昭和49年に顕正会の本尊は全部松本僧侶から受けていたものだ(趣意)」と一方的に発表したが、実はそれは真っ赤なウソであった。と言うことではないか。

昭和41年から「日達上人の御形木御本尊」が下付されるようになって約8年も経過した昭和49年時点で、昭和40年以前に下付されていた「日寛上人の御形木御本尊」が「数百幅」(昭和60年浅井発言)もしくは「大量に」(平成5年浅井発言)、妙縁寺だけに保存されていることは常識的に考えてあり得ない。

このことを証明する顕正新聞の記事がある。
以下の記事は高齢のある顕正会壮年部の体験談であるが、ここに昭和41年以降、妙縁寺で日達上人の御形木御本尊を下付していた事実が書かれている。




この記事から分かることは、
@ この高齢の壮年は、妙信講一筋で生きてきた。
A ということは妙信講関連以外から御本尊を下付されていない。
B 妙信講の所属寺院は妙縁寺である。
B 日達上人の御本尊を長年奉持してきた。
C 平成17年にその日達上人の御本尊を日寛上人の御本尊へ取り替えた。

この事実を検討すれば、この壮年に最初に下付されたのは「日達上人御形木御本尊」であった。
下付された寺院は妙信講が所属していた妙縁寺であることは当然のことである。
日達上人の御本尊が下付され始めたのは昭和41年以降のことであるから、妙縁寺でも昭和41年以降、日達上人の御本尊が下付されていたことになる。
しかし上記の浅井昭衛の昭和60年の”証言”に依ると、その昭和41年から8年も経った昭和49年時点に、昭和40年以前に下付されていた「日寛上人御形木御本尊」が「数百幅」も妙縁寺に保管されていてそれを譲り受けたということになる。
一体このような馬鹿げた”証言”が信用できるであろうか。極めて不合理な話である。

しかも昭和60年にそのように”証言”しているのは浅井昭衛一人であり、下付していた当事者である松本日仁氏はその8年も前の昭和52年に死去しているのである。
このような一方的な浅井昭衛の”証言”など、例えば裁判などでは証拠として到底採用されないであろう。
容疑者本人が自己正当化するために事実を捻じ曲げて証言しているに過ぎないと判断されるからである。

つまり、昭和49年妙信講が解散処分された当時、浅井昭衛は、出所不明の「日寛上人御形木御本尊」なるもの「数百幅」を松本元僧侶以外のいづこからか仕入れてきて講員に配っていた、ということになる。

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ここで一つの可能性として、以下のシナリオも考えられる。

昭和41年以降、日達上人の御形木御本尊が下付されるにあたって、それまでに受けた日寛上人の御本尊を日達上人の御本尊に交換したい、という講員があり、その返納された日寛上人の御本尊を松本元住職は総本山に返納せず妙縁寺に保管してあった。
それを妙縁寺を退出する時に浅井昭衛へ譲り渡した。

しかし、もしこうだとしても、やはり大謗法なのである。
その点については慧妙に明快に破折してある。(※下線・太字・記号は編者が挿入)

浅井昭衛が▼「御本尊数百幅を託してくださった」という時期は、▼「松本住職が妙縁寺を退出する時」(顕正新聞平成元年6月25日号)であるというが、それは、松本元住職が日達上人の命に従わなかった咎(とが)によって住職罷免となり、本宗から擯斥処分を受けた後のこと。
つまり、住職でもなければ、本宗僧侶でもなくなった松本氏には、浅井らに御本尊を授与する資格などなくなった、その後のことである。
であれば「授与する資格のない者が、謗法者に御本尊を渡した」ことになる。
しかも数百幅としたら、それこそ前代未聞の謗法行為であり、大事の御本尊が大量に不法譲渡されていたことになるではないか。

世間で例えれば、本社から支店長の任を解かれ解雇された人物が、支店長面して支店の在庫品を勝手に横流しするようなもので、これは世法上でも許されない犯罪行為である。(慧妙令和3年2月16日号)
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しかも、その後、顕正会が発表する入信者数によって考慮すれば自宅拠点の数は増え続けているのは確実であり、当初「数百幅」しかなかったはずの出所不明の「日寛上人御形木御本尊」なるものだけでは確実に足りない。
つまりその出所不明の本尊をさらに複製して増刷しているということになる。

こんな怪しい、いかがわしい、「本尊もどき」つまりは「ニセ本尊」に功徳などあるはずないのである。
あるのは「魔の通力」といって、一瞬、何らかの願いが叶ったように見せかけて、数年かけて本人には悟らせないようにジワジワと生命を蝕み、経済苦・病気・事故・怪我・家庭不和・人間関係の破綻・常に怒り、道理が分からないような人格破綻・そして精神障害、などなど、人生を破滅させていくのである。

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昭和60年の浅井発言にある、「御歴代上人御直筆の常住御本尊七幅」の件

浅井昭衛はかつてこのように発言している。

冨士昭和47年6月号18頁
▼「およそ他山に在る大聖人の御真筆御本尊すら、当宗に於ては古来より『戒壇の大御本尊』の分身として法主上人の御開眼を経なければ拝みまいらせず」


「御歴代上人御直筆の常住御本尊七幅」が仮に真正な御本尊であり、また、どのような方法で入手したとしても、それは今、日蓮正宗から破門された団体である顕正会が所有しているということは、まさに▼「他山に在る」ということであり、▼「大聖人の御真筆御本尊すら、(中略)法主上人の御開眼を経なければ拝みまいらせず」と浅井昭衛自身が言うのであるから、当然その「御歴代上人御直筆の常住御本尊」は、日蓮正宗の御法主上人の御開眼がなされなければ、現時では正当な本尊とは言えず、功徳は全くないのである。

以上の重大な疑点について顕正会本部職員であり教学部委員である浅野恭浩君 責任ある回答をせよ。
もし、回答なり反論が無かった場合、顕正会側はこの当方が指摘した事実を認めたと判断し、今後大いに喧伝するがそでれよろしいな?

返答期限は 令和3年2月24日正午とする。

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★ 顕正会本部職員 教学部委員 浅野恭浩君を完全論破 浅野君完全反論不能の全記録

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前回からここまでの経過