「塚原問答こそが、法論の王道」だということですね?私もそう考えます。

あなたが書いたように塚原問答は「諸宗の僧らは法論が始まる前から興奮し、その罵声は雷のごとく山野に響いたと言われています」という中で始まったようですね。
ここで、先に大聖人の謀殺を迫ってきた邪宗の僧、数百人に対し、本間重連は「只法門にてせめよかし」と言って「塚原問答」が成立しましたが、仏教における教義についての議論は言うまでもないですが、勿論「問答形式」。
「問答」とは、質問と返答が順番に繰り広げられる「交代制」であり、ある意味、法論における正統なルールでしょう。
しかし、予め「問答」と決まっているにも関わらず、大聖人を憎む諸宗の僧侶は
「諸宗の僧等が続々と塚原の三昧堂に集まった。彼らは口々に大聖人を罵り、騒ぎ、その音声は地震か雷鳴のようであったという」だった。
しかし
「その様子を見て、大聖人はしばらく騒がせたのち、「おのおの静まらせ給え、法論の御為にこそ御わたりあるらめ、悪口等よしなし」と声だかに仰せ、
その後も、居合わせた六郎左衛門が「そのとおり」と言って執拗に悪口する念仏僧達の首根っこを捕まえ追いやるなどした」と書かれてあります。

つまり、本間六郎左衛門でさえも、騒然とする邪宗の僧侶集団の中で大聖人一人が相手に法論をすることは、「公平ではない、言語道断である」
と第三者でありながら「法論」は整然と行うべきとの当たり前の認識があり、身をのり出して厳しく念仏僧侶達を制せられ、きちんと問答形式という本来のルールに則った法論を開始させています。

あなた方にとって都合の悪い部分が、分かりやすく抜けていましたので、書き足しておきましたよ。
まさか、大聖人の御化導にとって極めて重要な意義を持つ厳寒の地、塚原での過酷な御生活を著された重大な御書を「切り文」にし、自分らの自己正当化の道具にするとは「恥を知れ!」と言いたいですね。
このような破廉恥な者共はもはや「仏弟子」の資格は全くありません。むしろ我意我見をごり押しする破仏法の輩です。
大聖人の仏法をいるがせにし、自己正当化のために私物化し、歪曲する…
無道心とはまさにあなた方のことではありませんか?!

そして「法論」とは「法の正邪を決する議論の場」ですよね?
これにより、どちらかは「成仏」どちらかは「無間地獄」であることになり責任は重大です。
勿論、技を競い合うなどということでは済みません。
もし、大事な法門の論議が、自由であって良いというなら、いわばそこは、無法地帯で単なる言い合いに終始するでしょう。
全くまとまりのない、結果、平行線なだけの「論争」となってしまいます。
そうならない為、秩序ある公平で厳しいルールを守ってこそ格式の高い議論の勝負といえます。
言葉が「法論」「試合」「勝負事」「ゲーム」にしても、それに重大な意義があるかどうかです。
意義が深くあればあるほど「規制」「規定」は必要だし、「厳格さ」は当たり前に求められるものと考えます。

そして、もっと現実的に説明すれば、こちらに何度も載せた動画に当てはめると非常に分かりやすいので、再度
実録音声データ! 顕正会総務&男子部部長(当時)の虚偽捏造の登壇活動報告と 実際の対論での狂乱振りを暴く!
https://youtu.be/blPe4jJv6VE

と、双方が録音、公開の約束をしていたにもかかわらず、まるでA総部長さん達の修羅丸出しの姿は諸宗の僧侶達がついた悪態を想像させるではありませんか。
樋田さん達法華講側の話す番になって、いくら丁寧に説明しようとしても、それを遮ってまともに聞こうとも喋らせようともせず、同じ言葉を攻撃的に浴びせ、嘲りまくる始末。
この興奮の様だと全く静まる様子はないですね。これは「問答」とは程遠いですね。
大聖人が
▼「静まりなさい、お前たちは法論の為に海を渡ってきたのだろう、悪口を言いにきたのではなかろう」と言って、それでも執拗に悪口を言い収まらない念仏僧達を、居合わせた本間六郎左衛門が「そのとおり」と言って首根っこを捕まえ追いやるなどした」
と書かれてありますが、念仏僧たちでさえ、大人しく言うことを聞き、問答形式という交代ルールで法論ができたと書かれてありますが、激しく叫ぶ様は、誰が観てもちょっと「お行儀よくしなさい」と忠告したくらいでは効き目が弱いようですね。
であるからして、大阪で顕正会側が提示した
「1、 両者とも人数は3人以内とする。
2、 礼儀正しく、理をつくして話し合うこと。
3、 意見が通らないからといって、示威行為や非常手段に訴えたりしてはならい」
などの「マナーを守りましょう」程度の優しい決まり事では、話を遮られ喚き散らされ、後々事実を曲げて実名とともに公表する卑怯な顕正会教学部に対し、菩提寺に迷惑がかからないよう細心の注意を払って、顕正会教学部を甘やかすことなく、厳格なルールを定めて臨むことは当然です。
最初から、卑劣極まりない相手と分かって、何の準備も対策もせずに行く無謀で馬鹿なことは私達はしないということです。
普通の話し合いができない、あなた方の悪態がこうまで約定を厳格にしなければならなくなったということなのですよ。
しかし、末端会員を救う為には、顕正会教学部がまともな法論ができないと分かった上ではあっても、くだらない応酬に付き合ってやらなくてはいけないという法華講の大聖人仰せのままの折伏精神からで、困難を十分承知して受けてあげるための最低限度必要な条件です。

しかも一方的にならないよう、そちらにも配慮して (草案) とているのです。
それが下記に示した

「●双方、映像記録を撮り、後に公開することを許諾する。(※映像記録として公開し、会員と世間の両者大勢の方に観ていただき救っていきましょう)
その際、一切の法的権利を主張せず、相手側の公表を無条件で受諾する。
この場合、音声・実名・役職名は加工しない。しかし、事実と異なる改竄・編集が加えられて公表された場合は、法的制裁を受けることとする。
●見学者は許可する。双方同数とする。(会場の収容人数により見学者収容可能の上限の半数を双方に許可し、もし双方それに満たない場合は、同数にならなくても可。)
見学者の発言は認めない。発言した場合は即退場とする。
●対論者の発言は上限1分とし、双方タイムキーパーを設け、厳格に運営する。制止を無視し発言を続けた場合は即敗北とする。」
という今回の約定です。
しかし、あなた方は約定の内容には触れず、樋田さんに対する言い掛かりで話を散らかし続けるばかりで、何とか大阪のことに話の論点を持っていこう必死でしたが、
それもどうせ時間潰しで反論してるフリでしょう。
「法華講が逃げた」とすれば、こちらがムキになって話にのってくるとでも思ったんでしょうね。
ついでに言えば、創価学会は自分達独特の御書の捉え方をするとはいえ、法論に自信があるからこそ、公開条件をのみ、正式な場になれば、粛然とした姿勢で臨んできますよ。
同じニセ本尊を拝んでいても、顕正会の方が明らかに臆病なのでは?

この「塚原問答」を法論の「基」として考えるのであれば、法論にルールが全く「否」ではないことは、おのずとあなた方も認めてることになりませんか?
そして、あなたが
▼「大聖人の師子吼の前についに邪宗の僧らは口を閉じ、顔色を失い、中には誓状を立てる者までいたといいます。」
と、言うように、塚原問答の「公場対決」こそ、それを見た周りの念仏僧達が、いっきに正しい方に帰依しているのですから、今回に当てはめると「第一項」こそ、やはり大聖人の仰せの御書のままのルールに間違いないと証明されたようで、あなた方からの返答を有り難く思います。

以上の点から、約定に関しては、あなた方自らが「塚原問答」をもって殆どの項目が法論のルールとして妥当であると容認したように捉えましたがどうなのでしょうか?

これにより、ひとまず
「何らかの形で公開」
「会話は交代制」
「第三者にタイムキーパー
を務めてもらう」
「制止を無視し発言を続けた場合は即敗北か、何らかのペナルティー」

であることは成立しましたね。(もちろん、この入り口としての大綱の上で、当方提示の約定の是非について論議し詰めていかなければなりませんが。)

何回も言いますが「教学部側がまっとうな法論ができればなんの問題もないルール」ですよね。

それと、ついでに言えば、顕正側が大阪法論で提示したという、礼儀作法として一般常識的なことを言っているにすぎないルールとは、浅井会長が基礎教学書でも「学会代表と法論」としたものがあった時に、宗務院側から示された条件ですが、そもそも「同じ宗内で法論」なんて有り得ませんよ。
有り得ませんし、御法主上人がお許しになりませんよ。

「池田会長は間違っている!」と言って宗内を乱す浅井会長に対し、対応してやってほしいと宗務院から学会が頼まれ、やむなく行われた「話し合い」です。
その話し合いの際に宗務院側が敢えて、普通の大人なら自然にできるマナーを「条件」として書面で示してたのは、浅井会長は意見が通らないからといって、示威行為や非常手段に訴える、普段からそのような危険があるとみなされていたというわけです。
このことを「法論」だなどと、学会に対立姿勢だったところが、そもそも浅井会長が正宗で同志に対して常に誹謗中傷をし、周りに悪し様に吹聴することを繰り返していた、「破和合講」だったということです。
▼「流血の惨を見ること必須であります」
などという手紙を御法主日達猊下に送ったくらいですから、自分達の要望が叶わなければ何をしでかすか分からない、危険なグループになっていたということです。
そして、それこそが破門理由です。

今も、末端会員は浅井会長が御遺命を命がけで守護したと信じて疑いもしないでしょう。
あなた方は「浅井先生絶対」と言いながら、浅井会長に伏せて拝し、長年信じることで、命がそっくり引き継がれているではありませんか。

あなた方が手を合わせている方向は大御本尊様ではないです。
教祖を崇める団体なのは、学会と同じです。

そして、また今回もいつまでも、しつこく大阪法論の話も聞いてほしいようですが、あなた方が言わなくても読んだ人が知ってることですから、こちらの窓口での解説は不要です。

大阪法論はあなた方が答える番で休止しているようですから、そちらに戻ってやってください。

今現在の法華講側の詰問は、いずれこちらもこれに追い付く形になるでしょうが、何回も同じ質問をされてよく飽きませんね。
このままでは返答不能で敗北と見なされてしまいますよ。