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■浅井の過去の発言「大石が原が戒壇建立の最適地」

かつて浅井は、

▼ 「下条より約半里ほど離れた北方に大石が原という茫々(ぼうぼう)たる平原がある。後には冨士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地として最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである」(冨士 S39.9)

と発言していた。
ここにはっきりと 「大石が原が戒壇建立の地として最適と日興上人が決められた」 と言っている。

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▼ 「戒旦建立の勝地は富士

また戒旦建立の地は富士山也との御遺命もある。
(中略)
かくて新しく霊地富士に建設せられた道場が大石寺であります。」(冨士2号 37年2月

→ 「戒旦建立の勝地が富士」 といい、そこに「建設せられた道場が大石寺」 ということならば、 『大石寺が戒旦建立の根本道場』 ということではないか。

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▼ 富士大石寺を法城に

それから上野の南条家の持仏堂(今の下之坊)に移られて、南条時光の丹精で、富士山に負い、駿河の海を臨むる景勝この上もなき大石が原に御大坊ができた。
 その地の名のままに大石の寺といわれ、御遺命通りに本門戒壇の建つべき根拠をえたのを満足なされた。
これは正応三年であった。
これを一宗の根本道場と定めて、宗祖より御付属の戒壇の本尊始め御大事の宗宝どもを安置し奉り、一天御帰依の時を待つのである。(冨士39年4月号  A

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日亨上人御指南

■ (※大聖人が)三国一の名山たる富士山の下に、堂々たる戒壇堂を中心にして一大仏教都を建設しようという御考えであったろうが、その地割なども、公にしていない。
 日興上人に口伝せられて、その伝統の上人の腹中に存するのであろうが、場所だけは天母原(あまふがはら)と後世にいっておる。
しかし、たしかな縄張りや、壇堂の設計、または授戒の作法等は、その時の法主の口伝から出ずべきものであろう。冨士39年7月号

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■四神相応こそ戒壇建立の最適地

浅井はこの『四神相応』について、

▼「この地(大石が原)こそまさに四神相応の勝地といわれるにふさわしいと仰せられた日興上人の御心にしたがい」(冨士98号)

と発言し、大石が原が四神相応の地であるとしています。

この四神相応について第五十九世・日亨上人は、

● 「ここには大石が原中心(大石寺本末の地域)にして四神相応の適否を見よう。まさに四神相応に近からずや。(中略)ことにわれら開山上人・開基檀那南条時光の、遠き未来をかんがみての十二分の御用意に感謝すべきである」

と、大石が原が四神相応の勝地、本門戒壇建立の地と結論づけられています。にも関わらず、天母山だ天生原だと騷ぐ浅井は何なのでしょうか。

それならば、「天母山は四神相応の地であるのか?

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四神相応

大石寺

北 玄武 千居の原

東 青竜 御塔川

西 白虎 大きい道、狩宿に至る道路。ここは七池、

南 朱雀 七井戸 汚地


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