はい。第4世 **日道上人(にちどうしょうにん)**は、日興上人・日目上人から続く初期大石寺の法脈を考えるうえで、非常に重要な人物です。
日蓮正宗の公式系譜では、第2祖日興上人 → 第3祖日目上人 → 第4世日道上人とされ、日道上人は1333年(元弘3年)に第4世として登座したとされています。(日蓮正宗)
日道上人は、弘安6年(1283)、伊豆国仁田郡畠郷(現在の静岡県函南町畑毛付近)に生まれたと伝えられています。
そして非常に注目すべきなのが、日目上人と南条氏を通じて親族関係があったとされることです。
日目上人の母・蓮阿尼は南条時光の姉であり、日道上人はその南条家と深い縁を持つ家系から出ています。資料によって系譜の細部には異同がありますが、日道上人が南条氏・日目上人と血縁的にも深い関係を持っていたことは、日道上人の大石寺継承問題を考えるうえで重要です。(syo-shin-kai)
正安元年(1299)、16歳のときに日目上人を師として出家したと伝えられています。
その後、重須において日興上人にも仕えました。
したがって日道上人は、
日蓮大聖人 → 日興上人 → 日目上人 → 日道上人
という初期富士門流の中心的な師資関係の中で育った人物です。
これは後世の大石寺史を理解するうえで非常に重要です。
日道上人は日目上人と同じく、奥州地方との関係が非常に深い人物です。
特に現在の宮城県登米市周辺に弘教しています。
嘉暦2年(1327)には、日目上人から奥州の上新田坊(後の本源寺)を譲られたと伝えられています。
また正慶元年(1332)には宮野に妙円寺を創建。
つまり日道上人は、単に大石寺の後継者として待機していたのではなく、日目上人とともに実際に地方弘教を展開していた人物です。
ここが非常に重要です。
元弘2年(1332)11月、日目上人は京都への天奏の途中、美濃国垂井で御遷化されます。
日目上人は大石寺の後継者として、日郷上人を大石寺へ招いていたとする史料があります。
ところが、日目上人の死後、
日郷 vs. 日道
という大石寺継承をめぐる問題が発生します。
『日本歴史地名大系』の大石寺の項でも、この問題がかなり明確に説明されています。
日目上人が日郷を大石寺に招いたものの、大石寺を守っていた日道らが、**「日目と同じ南条一族に属する自分(日道)が継承すべきだ」**として異議を唱え、結果として日道が大石寺を継承することになり、日郷は大石寺を離れた、とされています。(コトバンク)
これは、現在の日蓮正宗史を考えるうえで極めて重要なポイントです。
日道上人は、元弘3年(1333)10月、大石寺第4世として大坊に入りました。
日蓮正宗の公式系譜も、
1333年(元弘3年) 第4世 日道上人
としています。(日蓮正宗)
そして日道上人の時代に、初期大石寺の歴史を知るうえで非常に重要な著作が成立します。
日道上人は、**『御伝土代』**を著したと伝えられています。
これは、
日蓮大聖人
日興上人
日目上人
の三祖の事跡をまとめた初期の伝記史料です。
したがって、日道上人自身が単なる「法主」ではなく、自分が直接仕えた日興・日目の記憶を後世に残した人物でもあるわけです。
日道上人の教学史上の活動として、**「方便品を読むか読まないか」**という問題もあります。
建武元年(1334)、日仙・日代との間に「方便品の読不読論」が起こり、日道上人は方便品を読むことについての義を示した、と伝えられています。
これは後世の大石寺教学における、
「法華経方便品・寿量品をどう扱うか」
という問題の非常に早い時期の事例として興味深いものです。
日道上人は、延元4年(1339)6月に法を第5世日行上人へ付嘱したとされます。
そして
興国2年(1341)2月26日
大石寺大坊において御遷化。
59歳でした。
系譜を整理すると非常に分かりやすいです。
日蓮大聖人
↓
第2祖 日興上人
↓
第3祖 日目上人
↓
第4世 日道上人
↓
第5世 日行上人
日蓮正宗では、この流れを「血脈相承」の連続として現在まで位置づけています。公式サイトでも、日興→日目→日道へと血脈が継承されたと説明しています。(日蓮正宗)
ただし、歴史学的に見る場合には、日目上人の死後に「日郷」と「日道」の間で大石寺継承をめぐる問題が生じたという事実を無視できません。
そして、ここがかなり面白いところです。
以前ご質問になった**「日興上人の正墓は北山本門寺なのか」「日目上人の後継は誰なのか」「大石寺の歴代法主の正統性」**という問題と、この日道上人の継承問題は、実は一本につながっています。
特に、「日目上人は本当に日道上人に大石寺を譲ったのか、それとも日郷上人を後継者に指名していたのか」については、史料を一つ一つ比較するとかなり興味深い結論が見えてきます。ここは次に、『日興置文』『大石寺相承書』『日目置文』『日郷関係文書』など、現存史料ベースで徹底的に検証できます。
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はい。先ほど私が「史料を一つ一つ比較するとかなり興味深い結論が見えてきます」と申し上げた点を、できるだけ党派的な説明を離れて、現存史料と後世の記録を分けて検証してみます。
結論を先に言うと、
「日目上人から日道上人へ大石寺の法統・唯授一人の相承があった」と断定できる同時代の決定的な一次史料は、現在確認できる範囲では非常に弱い。
一方で、日目上人が日郷上人を非常に重視し、「法命を継ぐ」旨を記した現存文書があるため、日郷への相伝を示す史料的根拠も無視できない。
したがって、歴史学的には「日目→日道」が完全に証明されている、とするのも、「日目→日郷」が完全に証明されている、とするのも慎重であるべきです。
というのが妥当だと思います。
1333年、日目上人は京都への天奏に向かいます。
このとき同行したのが日尊上人・日郷上人です。一方、大石寺の留守を任されたのが日道上人だった、という点については複数の伝承が一致しています。平凡社『世界大百科事典』もこの筋を採っています。(コトバンク)
そして日目上人は同年11月15日、美濃国垂井で亡くなります。
ここから問題が始まります。
大石寺側の伝承では、
日目上人
↓
日道上人
↓
日行上人
という継承になります。
現在の日蓮正宗の歴代では、
日蓮
↓
日興
↓
日目
↓
日道
という系譜です。
ところが、ここで非常に重要なのが、日目から日道に与えられたとされる**『與日道書』**です。
この文書は実際に大石寺に伝来しています。
しかし内容を確認すると、少なくとも現存文書の本文からは、
「大石寺の法主として日道に唯授一人の血脈を相承する」
という明確な文言が出てくるわけではありません。
日道に対して、田畑・上新田坊などを譲る内容が中心なのです。
つまり、
「日目が日道を重要な弟子として扱っていた」
ことの証拠にはなりますが、
「日目が日道に大石寺の法統を唯授一人で相承した」
ことを直接証明する文書とは言いにくい。
ここはかなり重要です。
こちらがさらに興味深い。
日目上人から日郷上人に宛てた書状が、保田妙本寺に複数現存しています。
その中に日目上人が日郷に対して、
「法命を継ぐ可く候」
という趣旨を述べたものがあります。
これは非常に重い言葉です。
つまり日目上人が日郷に対して、
「あなたは法命を継ぐべき者である」
という意味のことを言っている。
したがって、少なくとも、
日郷が日目上人の後継者候補として非常に重要な位置にいた
ことは、単なる後世の伝説として片付けることができません。(気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆)
日郷の弟子である**日睿(=日叡)**が残した『類聚記』には、日目から日郷への相伝について、かなり具体的な記述があります。
伝えられるところでは、
弘元年十月一日
日目上人より日郷御相伝
という記録があります。
さらに、
建武二年六月中旬、大石寺御仏前にして相伝
という記述もあります。
この『類聚記』が重要なのは、成立時期です。
奥書によれば貞和5年(1349年)。
日目上人が亡くなった1333年から、わずか16年後です。
しかも日郷本人がまだ存命の時期です。
したがって、
「何百年も後に作られた伝説」
とは性格が全く違います。
もちろん、「弟子が師から聞いた内容だから完全に客観的」とまでは言えません。
しかし、少なくとも14世紀のかなり早い段階から、日目→日郷の相伝を主張する伝承が存在していたことは重要です。(気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆)
日目上人が亡くなった後、
日道側
と
日郷側
の間で大石寺の継承をめぐる問題が起きたこと自体は、後世の資料にも記録されています。
『祖師伝』に引用される伝承では、
大石寺衆は「日目が大石寺を日道に付属した」と主張した
一方、
小泉久遠寺側は「日目から日道への付属はなかった」
と反論しています。
つまり、かなり早い段階から、
「日目 → 日道」
「日目 → 日郷」
という二つの相承系統の主張が存在していたわけです。(気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆)
ここからが一番大切です。
「日目→日郷」の史料があるから、
「では日目上人は間違いなく日郷を大石寺法主に指名した」
と結論するのも早いです。
なぜなら、日目の「法命を継ぐ」という言葉が、
大石寺の法主職そのものを意味するのか
それとも、
日蓮の法門を継承する弟子としての意味なのか
という問題が残るからです。
逆に、
『與日道書』
があるから、
「日目は日道に唯授一人の血脈を相承した」
とするのも、文書本文からは飛躍があります。
| 問題 | 史料から言えること |
|---|---|
| 日目→日道に重要な付託があったか | かなり強い |
| 日目→日郷を重要な後継者として扱ったか | かなり強い |
| 日目→日道に「唯授一人の血脈相承」があったか | 直接証明する同時代史料が弱い |
| 日目→日郷に法命継承の相伝があったか | 日郷系史料にはかなり具体的な記録がある |
| 日郷が大石寺の第4世になる予定だったか | 断定困難 |
| 日道が大石寺を実際に継承したか | 事実として成立した |
この区別が非常に重要です。
日道側の記録には、日目上人の死後、
日郷が「目師御臨終の時、大石寺を以て某に付属し給ふ」
と主張したため、衆議がまとまらず、日道と日郷が対論した、という趣旨の記録があります。
つまり日道側の史料ですら、
日目の死後、日郷が「自分が相承を受けた」と主張していた
ことを認めているわけです。(アメーバブログ(アメブロ))
これは非常に重要です。
私なら、現在確認できる史料を基準にして次のように整理します。
@ 日目上人は日道上人を非常に信頼していた。
『與日道書』などから確認できる。
A 日目上人は日郷上人も極めて重視していた。
「法命を継ぐ可く候」という文言を含む書状が存在する。
B 日目死後、大石寺の継承について日道・日郷間に深刻な対立が起こった。
これは複数の系統の資料から確認できる。
C 結果として日道が大石寺を掌握し、第4世となった。
これは後世まで続く大石寺の歴史的事実。
「日目上人が臨終直前に日道へ唯授一人の血脈相承をした」
という一点です。
ここについては、現在知られている資料だけでは、現代の日蓮正宗がいう意味での「唯授一人相承」を歴史学的に確定するのは難しいと思います。
実はこの問題は、単なる「日道と日郷、どちらが4世だったか」という話ではありません。
この問題をさらに追究すると、
「大石寺の唯授一人相承という制度・概念そのものが、いつ、どのような史料によって明確化されていったのか」
という問題に行き着きます。
特に、
『日興置文』
『日目置文』
『與日道書』
日目から日郷への書状
日睿『類聚記』
日道の記録
日精『富士門家中見聞』
日辰『祖師伝』
『富士宗学要集』
を年代順に並べて、「日目→日道」という話がいつ初めて明確に現れるのかを調べると、かなり重要なことが分かります。
そして、これは以前お話しした**「日興上人から日目上人への相承」「日興置文」「一弟子六人・不次第」**の問題とも直接つながります。
もしこの点を徹底的に調べるなら、次は**「日目→日道の相承を証明するとされる史料を、原文・成立年代・現存場所・後世の加筆可能性まで一つずつ検証する」**のが一番いいと思います。
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