大石寺の第22世は日俊上人(にっしゅんしょうにん)です。
かなり興味深い人物で、特に京都・要法寺との関係、細草檀林、そして第26世日寛上人との関係を見ると、江戸初期の大石寺の実態を考えるうえで重要な法主です。
法諱:日俊(にっしゅん)
号:松園(しょうえん)
院号:本法院
生年:寛永13年(1636年)
没年:元禄4年(1691年)10月29日
享年:56歳
大石寺登座:延宝8年(1680年)
前法主:第21世 日忍上人
次の法主:第23世 日啓上人
日蓮正宗公式の歴代系譜でも、第21世日忍→第22世日俊→第23世日啓と記載されています。(日蓮正宗)
日俊上人は、京都の要法寺系の僧侶です。
幼少のころ要法寺で出家し、当初は日暁と称したとされます。その後、大石寺に入り、第17世日精上人に随侍して修学しました。
さらに千葉の細草檀林で学問を修め、最終的には同檀林の第8代能化(学頭・教授職)にまでなっています。(日蓮正宗の歴史)
そして延宝8年(1680)、第21世日忍上人の遷化に際して大石寺に入り、日忍上人から法を相承して第22世となったとされています。(日蓮正宗の歴史)
つまり、
要法寺で出家 → 大石寺で日精に師事 → 細草檀林で研鑽 → 細草檀林第8世能化 → 大石寺第22世
という経歴です。
日俊上人の在位は約11年間ですが、重要な出来事があります。
天和2年(1682年)、日蓮大聖人の第400遠忌、さらに日興上人・日目上人の第350遠忌にあたる法要を執行しています。(日蓮正宗の歴史)
日俊上人の時代には大石寺の書院・奥・台所・玄関・黒門などが造立されたとする記録があります。施主として富士地方の有力な檀越である外神村の佐野伝兵衛の名も伝えられています。(楽天ブログ)
元禄元年(1689)には、北山本門寺との間で宗論・訴訟問題が発生しています。
日俊上人はこれについて「弁破日要義」を著し、元禄3年(1690)には寺社奉行へ返答書を提出しています。最終的には双方が訴えを取り下げています。(法蔵)
これは、以前お話しした日寛上人の教学形成とも直接つながります。
日寛上人は若いころ、総本山に登山して第22世日俊上人・第23世日啓上人に仕えて修学したとする記録があります。その後、細草檀林に入り、そこで本格的な教学研鑽を積んでいます。
したがって、
第22世日俊
↓
第23世日啓
↓
第24世日永
↓
第25世日宥
↓
第26世日寛
という江戸中期の教学の流れを考える場合、日俊上人はかなり重要な位置にいます。
さらに興味深いのは、研究論文で紹介されている日俊上人の「初度説法」に、
「此三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや」
という趣旨の記述があることです。これは、大石寺の本門戒壇の板本尊と三大秘法の関係を、17世紀末の第22世日俊がどのように理解していたかを考えるうえで重要な史料です。(日蓮正宗問題研究)
日俊上人について調べると、単に「大石寺第22世」というだけでなく、
「なぜ京都要法寺出身者が21世・22世・23世……と大石寺の法主になっていたのか」
という問題が浮かびます。
実際、日俊上人は要法寺出身であり、第21世日忍も要法寺出身、第23世日啓も要法寺出身です。この時期の大石寺と京都要法寺・細草檀林との関係は、現在の日蓮正宗の公式的な「大石寺の法脈」を考えるうえでも、かなり重要な歴史問題です。(日蓮正宗の歴史)
もしよければ次に、**「第17世日精→18世日盈→19世日舜→20世日典→21世日忍→22世日俊→23世日啓」と、この時代の法主がなぜ要法寺系に連続しているのか**を、当時の史料まで遡って詳しく調べてみます。これはかなり面白いところです。