お疲れ様です。埼玉の方の体験談もよくわかりました。
同じような人は日本にたくさんいると思います。
 
私の場合は、いわゆる福子でしたが宗門問題等で嫌気がさして信心そのものから遠ざかっていましたが、
1997年9月にいろいろな事情を抱えて、創価学会の偽本尊を遠隔地だった東京で受けたのです。
 
1997年9月に偽本尊を受けたとき、従来の望みがかなって「これは初心の功徳だ!」と思ったのもつかのま、
2003年に実家に戻り、2004年に偽本尊を返すまでの7年間は最悪な状態で、樋田さんのご指摘されているような”魔の通力”と、以降は不幸の境涯という連続でした。
これならば信心を捨てていた時代のほうが楽だったぐらいなような状況でした。
まさに、御書にいわれるように、7年後の現証だったのです。
 
樋田さんがご指摘されているように、魔は個人の不幸や苦しみが大好きだったようで、おもに遠隔地で七年間維持した学会の本尊を拝むと、絶えず遠隔地時代の辛い時代が蘇っていたのです。
 
しかも、実家に戻っていた私は、学会の偽本尊を拝んで、苦しい境涯のころを思い出せば、今を乗り越えられるというような考えにいたっていたのです。
苦しい時代を思い出せば、現在を乗り越えられるというような、観念的というか、後ろ向きというような、悩乱したような状態にいたわけです。
 
実家の両親が家に「二体」も本尊があるのはよくないから、どちらかを返すべきだというわけで、両親は学会から受けたあの本尊を返すように説得してきたのですが、当時は、私の苦しい境涯のころを思い出させる学会の偽本尊への執着が強くて拒否していました。
 
が、結局、2004年、家に昔からあった日達上人の御本尊を維持し、学会の偽本尊を返すことにきめ現在にいたるのです。
 
2004年当時、実家に戻って偶然、樋田さんの動画をみるようになっていたのですが、偽本尊を返して以降、私の悩みや苦しみは創価学会の謗法と偽本尊の害毒だった事実、そしてほんものの御本尊様の「功徳と罰」という現証を私自身が体験するようになっていったのです。
 
そのなかで、1997年9月遠隔地で受けていた偽本尊時代を因とする事柄で悩まされる事態に2005年9月以降陥ることになり、以後、日達上人の御本尊で信心していましたが、これまでにない境涯や、「功徳と罰」の現証が次々と起こることに驚き、正しい御本尊さまを護持しているだけではだめで、「大石寺に参詣しなくてはいけない」そして「法華講に入ろう」と私は決意し、2008年2月にまず自分が地元の日蓮正宗の寺で勧誡を受け、同年、3月両親そろって、日蓮正宗の寺で勧誡を受け、同年5月念願の大石寺参詣がかない、大石寺の本門戒壇の御本尊さまに「来年は両親をともなって参詣する」と誓いをたてたように、今年の5月、「立正安国論」七百五十年を記念する年に両親を伴って、大石寺に参詣することになり、現在にいたっているのです。
 
(私の話で恐縮ですが、今から考えれば、恐ろしいことに学会の偽本尊に執着しかけた自分、しかし今日では本門戒壇の御本尊に参詣できる私や両親の境涯を考えると本当に、仏と魔の闘いは存在することに驚かされる思いです。
 
実は、2005年7月に樋田さんの動画のURLを2ちゃんねるに貼り出して、顕正会信徒及び学会周辺部の人物らと対論していくなか、正しい仏法が流布されたらl困る第六天の魔の働きのためか、2005年9月以降私の存在そのものをゆるがすような事態に貶められたのですが、私を追い落とそうとしてきた人たちが逆に必ずその報い=「罰」をもらう結果にいたったり、自界叛逆難のような自滅的結果(創価・公明の惨状も含みます)をさらしているのが、「立正安国論」七百五十年を迎える今の現状なのです。
 
あまり詳しくは述べられませんが、私を貶めようとした相手側には直後に必ず関連する場所や内容を伴う死人や犯罪者が出ており、本当に御本尊の「功徳と罰」は恐ろしく存在するものと確信しているのです。
私は、大聖人の伊豆流罪に使われた鎌倉の由比ヶ浜、滝の口の御法難にあわれるなかで、大聖人が縄で縛られて通られた由比ヶ浜、北条政権が自界叛逆難で滅びた由比ヶ浜に遊びにいった次の日、私を貶めた相手側から、そっくりそのままの内容を伴う犯罪と死人を出してしまったのですからこれは「罰と功徳」以外考えられません。

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五でいう還著於本人、「還(かえ)って本人に著(つ)きなん」になっているのです。
しかも、妙法蓮華経観世音菩薩普門品の内容そのものが、私を貶めようとする相手側と私の境涯を顕しているようなものですから、驚くばかりなのです。
そもそも、大聖人の仏法とする根源は、方便品と、如来寿量品第十六ですからまさにその経典に書かれてある境涯に私は向かわなくてはならないし、その過程に私はいると思っています。
さらに、大聖人は、還著於本人と自界叛逆難を「立正安国論」を説かれたことがまさに、「立正安国論」七百五十年を迎える今年、いろいろな現証として、すべての地涌の菩薩に現れることになると確信しています。
 
したがって、偽本尊や偽の信心や邪儀を広めている創価学会や顕正会には必ず現証が出るはずです。
すでに創価・公明と連立を組む自民党麻生総理大臣をはじめとした2005年以降の最近の総理大臣の自分の恥さらし的な失態や、自界叛逆難的な様相といったような悩みや苦悩というような現証が次々と出ているのは、明らかです。
まさに、今年は「立正安国論」七百五十年の年であり、大聖人が「日蓮を用いぬるとも悪しく敬えば国滅ぶべし」といわれたような世界恐慌のような事態になっています。
仮に、創価学会が正しければ、彼らが連立政権にいるのですから、2005年以降の最近の総理大臣の自分の恥さらし的な失態や、自界叛逆難的な様相といったような自民党内の悩みや苦悩というような現証にはいたらないはずです。
また、公明党の矢野元委員長や福本さんのような方が創価学会から出るはずがないのです。
これは、自界叛逆難として創価学会に出ている現証なのです。
 
そもそも大石寺に参詣していた創価学会・池田大作氏がこのような大謗法の立場になったのは、釈迦に対する提婆達多、大聖人に対する三位房、日興上人に対する波木井実長の時代と同様に、第六天の魔が入った魔の所業なのだと思います。
 
こうしたなかで、樋田さんのご活動や折伏活動は、とても重要だと思うのです。
私は樋田さんの動画を知ってから、正しい信心に戻り、さまざまな「功徳と罰」の現証をいただいており境涯が変ることができていますので、本当に樋田さんには感謝しています。
樋田さんは、自行化他の実践だけではなくインターネットを通じて正しい信心を世界に向けて折伏されている地涌の菩薩です。
これは、妙法蓮華経如来寿量品第十六にかかれてあることそのものだと思います。
樋田さんのように、謗法=魔と闘い、正しい信心について、正しい信心を広げ、成仏していくことが本当の地涌の菩薩の修行としてあるのだと思います。)
 
長文失礼しました。私は、樋田さんのインターネットの配信が毎日待ち遠しくて拝見してきました。
 
樋田さんはお仕事といろいろな折伏とさまざまにお忙しい毎日と思いますが、これからもさまざまなインターネットにおける折伏に頑張ってください。